日本の安全保障分野での宇宙利用の歴史を理解するためには、武器に対する国民一般の印象がどのように変遷してきたかを知る必要がある。
安全保障は武器を使用する戦争とイコールではない。安全保障の最終手段として武器の使用がある。全ての安全保障の手段が失敗したその先に、武器を使用する紛争や戦争があるわけだ。このため、安全保障と武器を切り離して考えることが難しい。
宇宙開発には輸送手段としてのロケットが必須であり、ロケットの技術はそのまま武器の一種であるミサイルに転用可能である。このため、安全保障分野での宇宙利用は、常に武器と、世間一般が持つ「武器のイメージ」に影響されてきた。
カッパロケット輸出から、宇宙平和利用原則が成立
日本は太平洋戦争前から、ロケット兵器のためにロケットの研究開発を行っており、一部は「噴進砲」という名称で実用化された。その積み重ねの上に、東京大学の糸川英夫教授が、ロケット推進の航空機についての研究を始めたのは1954年(昭和29年)のことである。ロケット航空機の研究という目的は、地球科学の研究者が、高層大気の観測をロケットを使って行いたいという希望を持っていたため、すぐに宇宙を目指すロケットの研究へと変更された。
糸川の研究には比較的初期から、「兵器開発につながるのではないか」という懸念が表明されていた。それは理由のないことではなかった。糸川らが開発した「カッパロケット」は1963年にユーゴスラビア(当時)に、1965年にインドネシアに輸出された。それぞれ平和目的での利用ということになっていたが、実際にはユーゴでは後にカッパの固体推進剤の基礎データがミサイル開発に転用された。また、インドネシアへの輸出では、交渉時に背広で出て来た相手側担当者が、いざロケットを納入する段には軍服で現れたりもした。
これらの事例を受けて1967年の佐藤栄作総理大臣は、基本的に日本からの武器および武器となりうる物品の輸出を行わないとする「武器輸出三原則」を打ち出す。法的根拠のない政令に準ずる扱いの方針だったが、その後長く日本の武器輸出政策の基本方針となった。
さらに、1969年5月9日には衆議院で全会一致により「宇宙の平和利用」国会決議が決定した。
国会決議は、法的な根拠を伴わない場合には拘束力のない国会の意見である。が、衆議院で全会一致で可決された決議となると、それは国民の意志として重く見る必要がある。
このことから分かるように、敗戦後から1980年代にまで至る時代の流れのなかで、「宇宙技術を武力として使用しない」という意志は、広く国民一般が共有していた。