コンピュータゲームの開発には「技術」が必須です。少なくとも今のところは技術を持つのは「技術者」という人間だけです。従ってゲームの質を決める多くの部分は技術者の腕前に掛かっています。技術者の腕を上げていくのは勉強と経験です。ほかにはありませんし、どちらかが欠けてもいけません。そのため、ゲーム業界に限らず、学び合う場に集うのが好きな技術者が大勢居ます。

CEDECはここ数年、みなとみらいのパシフィコ横浜(横浜市)で開催されている
CEDECはここ数年、みなとみらいのパシフィコ横浜(横浜市)で開催されている

 勉強会とか学会とかいろんな呼ばれ方をしますが、ゲーム業界でその役割を果たしている大きなイベントとして日本では「CEDEC」(Computer Entertainment DEvelopers Conference)、米国では「GDC」(Game Developers Conference)があります。今回は、CEDEC黎明期の思い出話と両者の違いを話していきたいと思います。

 CEDECの主催は家庭用ゲームの業界団体であるCESA(Computer Entertainment Suppliers Association)です。CESAの活動でより知られているのは「東京ゲームショウ」(TGS)でしょう。TGSはゲームの販売者や顧客に向けて、完成品のゲームを披露する展示会ですが、CEDECはゲーム開発者が相互に技術の向上を図ることを目的としています。主導するCESA技術委員会はゲームの開発技術向上推進を目指す活動です。実際の運営は業界各社から委員が参加するCEDEC運営委員会が担っています。

当初はTGSのオマケ扱いだったCEDEC

 僕のCEDECへの関わりは、まだソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)に勤めていた頃でした。上司と一緒に初代プレイステーション用に作ったグラフィックスライブラリの内容説明を講演したのです。1998年、場所はTGSの会場である幕張メッセの会議棟だったはずです。会合の名称は「CESA技術戦略説明会」でまだCEDECではなく、TGSの併設イベント扱いでした。ツールメーカーの展示会も併設されましたが、ほとんどの方々はTGSへの参加でお忙しく、正直、閑古鳥が鳴いていたのを思い出します。

 当時、日本のゲーム業界は本当にイケイケで、日本製のゲームが世界の市場の半分を占めるような年さえあったと聞いています。みな、商売(営業)に夢中で、今ほどゲームを開発するための技術への関心は高くなかったのです。

 僕がCEDECに本格的に関わり始めたのは2004年、CECECの実質的な運営を行っていた組織「CEDEC SWAT」のメンバーになってからです。当時はゲーム開発用ミドルウェアを提供していたクライテリオン・ソフトウエアに勤めていました。マイクロソフト日本法人(現・日本マイクロソフト)のエバンジェリストだった川西裕幸さんに誘われたのです。

 川西さんはWindowsやXboxで使うグラフィックスライブラリー「DirectX」のエバンジェリストでした。技術書の翻訳や開発者コミュニティーの支援などでも精力的に活動しておられ、ゲーム開発者から一目をおかれる存在でした。川西さんは、「ゲーム開発者を蛸壺(たこつぼ)から引きずり出すのだ」が口癖で、いつの間にか僕も深い薫陶を受けました。