日本では19世紀の時点で、プライバシー観について欧米と大きな開きがあったようだ。イギリスの旅行家であるイザベラ・バードは、明治初期に執筆した日本の旅行記で、プライバシー観のあまりの違いに辟易とした様子を示している。

 「私は、障子と呼ばれる半透明の紙の窓を閉めてベッドに入った。しかし、私的生活の欠如は恐ろしいほどで、私は、今もって、錠や壁やドアがなくても気持ちよく休めるほど他人を信用することができない」

「隣人たちの眼は、絶えず私の部屋の側面につけてあった。一人の少女は、部屋と廊下の間の障子を二度も開けた。一人の男が――あとで、按摩をやっている盲の人だと分かったのだが―入ってきて、何やら《もちろん》わけのわからぬ言葉を言った。その新しい雑音は、まったく私を当惑させるものであった」

(宮本常一著「イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む」より)

 その一方で、障子を開ければ財布に手が届くにもかかわらず、盗まれることがない治安の良さを褒め称えてもいる。

 大家族制、障子やふすまによる不完全な仕切り、玄関から誰もが出入り自由―個人のプライバシーという観念がほとんどない生活習慣は、昭和の時代まで続くことになる。

プライバシーはイギリスで生まれた

 フランスの歴史家フィリップ・アリエスはその著作の中で、イギリスを「プライバシーの発祥の地」と表現している。

 近代以前、欧州ではパブリックとプライベートの区別はなく、人々は家の中で仕事と生活を隔てなく営み、誰もが外からその様子を眺めることができた。日本と同じく、ドアに錠をかけることはまれで、訪問者はノックをせずに家に入った。

 17世紀には、プライバシー意識の高まりと共に、住居が部屋で分かれるようになった。18世紀半ば、イギリスに端を発した産業革命によって、仕事の場が家庭から、工場や事務所に移った。この結果、家庭は純粋な私生活の場になった。アリエスは「プライバシーを発見したことで、人々は生活の中で大きな選択の自由を得ることができた」と記述している。

 この概念を、法的に保護される権利として明確に位置づけた先駆者は米国である。マスコミが有名人の私生活を暴く記事を乱発するようになった結果、1890年代から「放っておいてもらう権利(right to be let alone)」として、プライバシー権が法廷で認められるようになった。

 日本の法曹界でも戦前から戦後にかけ、米国で確立しつつあったプライバシー権を日本語訳する試みがあり、「内秘権」「秘密権」「秘匿権」「私事権」などの候補が挙がった。だが、そもそもプライバシーの概念自体、日本にはなじみがなかったこともあり、いずれも定着しなかった。