日経ビジネス1969年10月号に掲載された記事『日本のソフトウエアはここまで来た』に関する拙文の第3回目をお届けする(その1は『1969年、丸ノ内に「ソフトウエアの工業地帯」があった』、その2は『45年前、ソフトウエアは米国で商品になり、日本でおまけになった』を参照)。

 45年前の日経ビジネス記事には「ギャップ解消のキメ手はひとつ」という副題が付いていた。記事冒頭に「コンピューターの応用分野は無限に開拓していける。そのカナメがソフトウエアだ。このソフトウエアで米国に遅れをとっているため、日本でも開発に拍車がかけられている」とあるから、ギャップは日米のソフトウエア開発力の差を指す。

 記事後半には「米国の現状と比べて日本は6~7年遅れている」という指摘が出てくる。発言者は第1回情報産業訪米視察団の団長を務めた野村証券の奥村綱雄相談役である。この指摘を受け、日経ビジネスは4点の遅れを挙げた。経験の差、市場の広さ、周辺機器、情報検索方法である。

 周辺機器と情報検索方法が分かりにくいので記事を引用する。前者は「システム作りを助け、人間と機械の対話を円滑にする電算機の周辺機器の遅れ」だという。人間と電算機の対話が進まないとソフトウエアの開発力に影響する。周辺機器の例としてグラフィックディスプレイや磁気利用の伝票が挙げられていた。また情報検索方法の例として化学関係の情報抄録検索サービスが取り上げられ、日米の登録件数や検索機能の差が指摘されていた。

 4点の遅れを総括し、日経ビジネスの記事を次のように締めくくられた。「(ソフトウエアの開発や利用における日米差は)直接的には情報を提供する科学技術の力、間接的には情報を処理していくためのソフトウエア育成に対するカネの出し方の違い、社会の力点の置きどころにあるようだ。ギャップ解消の決め手はこのあたりにある」。