「このまま、こんなことをしていたら死ぬかもしれないな・・・もう、やっていられないや・・・」

 本連載の第1回目『「動くまで出るな」、冷凍マシン室に入れられた話』)にこのように書いた。

 当時の私は派遣ビジネスが中心の中堅ソフトハウスの社員に勤務していた。冒頭の思いを抱いた場所は、ある金融機関の中にあった社員食堂で、時は夜遅くだった。きっかけは私以外に誰もいない食堂の片隅に置いてあった血圧計を使ったことだった。

 測ってみると当時20代であったにもかかわらず最高血圧が180もあった。その日は冷凍室のようなマシン室に閉じこめられ、そこから出てすぐ、仕事の失敗の犯人探しをする会議に呼び出された。その会議で激論をしたこともあって、疲れと怒りで血圧が上がったようだった。

 ソフトハウス社員の私が金融機関の社員食堂でなぜ血圧を測っていたのかというと、大手コンピュータメーカーの社員だという触れ込みでその金融機関に派遣されていたからだ(『「頼む、死んでくれ」、二重の経歴詐称で地獄に行った派遣SEの話』参照)。

 実際と異なる経歴で派遣されたのは初めてではなかったが(『「新人なのに経験者」、偽の職歴で売られた話』参照)、その金融機関の現場は私にとって地獄だった。肩書きを事実上、詐称している苦しさに加え、上司であったメーカー社員から毎日のように苛められ、前回の本欄に書いた通り、その上司を殴りかねない状態にまでなっていた(『「ぶちっと何かが切れた音を聞いた」、陰険上司に手を出さず足を出した話』参照)

 その金融機関に派遣される前、あちこちの開発現場で仕事をしてきたが、心身の調子を崩した同僚や現場の仲間を見てきた(『「電車に乗ろうとすると気持ちが悪くなるんだ」、現場に来られなくなった話』)。派遣のSEやプログラマーから足を洗った同僚もいた(『「もういいんだ、田舎に帰る」、キャリアプラン無き会社を辞めた話』)。

 いよいよ自分も具合が悪くなってきたのか。辞めたいが辞めたところでどうなるのか。派遣のSEやプログラマーしかやったことがない自分である。結局、業界の下請け構造の末端にいることになるのではないか(『「ふざけんじゃねえよ」、3次請けが2次請けに切れた話』)。

 悩んだ末、私はそのソフトハウスを辞めた。幸いにも縁を得て、ユーザー企業に転職することができた。派遣のSEやプログラマーから、いわゆるユーザー企業の情報システム担当へ立場を変えたのは1992年の秋のことで私は28歳になっていた。