9月19日未明、参議院本会議で安全保障関連改正法案が可決された。衆議院本会議では7月16日に野党欠席の状態で可決しており、参院通過により安全保障関連改正法案は成立した。この法案は、内容も審議過程も大きな議論を呼んだが、本稿では扱わない。ここで扱うのは、毎日新聞が9月28日に報じた「憲法解釈変更:法制局、経緯公文書残さず」というニュースである。

憲法解釈変更:法制局、経緯公文書残さず(毎日新聞:2015年9月28日)

 政府が昨年7月1日に閣議決定した集団的自衛権の行使容認に必要な憲法9条の解釈変更について、内閣法制局が内部での検討過程を公文書として残していないことが分かった。法制局によると、同6月30日に閣議決定案文の審査を依頼され、翌日「意見なし」と回答した。意思決定過程の記録を行政機関に義務づける公文書管理法の趣旨に反するとの指摘が専門家から出ている。

 安全保障関連改正法案では、政府の憲法解釈を変更する必要があった。そこで内閣は、解釈変更の妥当性の検討を内閣法制局に依頼した。ところが、その検討過程の記録が残されていなかったというのである。

 特に後追い報道もなく、見過ごされた形になっているニュースだが、報道が事実だとすれば、これは日本という国の将来を大きく左右しかねない、ゆゆしき事態だ。

 公文書は国の記憶だ。国の未来への進路を決めるためには、過去をきちんと知り、分析する必要がある。しかし、肝心の公文書が作成されなければ、また、作成されても保存されなければ、保存されてもきちんと必要に応じて引き出すことができるように整理されていなければ、過去を知ることができなくなってしまう。国が記憶喪失になってしまうのだ。記憶喪失となった国は、過去と同じ過ちを繰り返すようになる。

 しかも、これまで内閣法制局ほど厳格に諸々の記録を公文書化してきた役所は他にない。その内閣法制局が公文書を残さなかったというのは、大変な事件なのである。