日本の電子産業が苦境から抜け出せない。例えば、半導体。半導体の世界売上高は2014年に2年連続して過去最高記録を塗り替えたものの、日本では半導体は構造不況業種に成り下がっている。1980年代後半の日米半導体摩擦がうそのようだ。

 この寄稿では、30年間米国企業で働いた日本人技術者が実際に現場で見た状況を基に、米国電子産業が復活し日本電子産業が凋落していった理由を分析する。日本から見ると派手な動きが目に着く米国だが、実際には米国企業は長い年月をかけて地道に力を付けてきた。それが結実した、と著者は見る。技術者個人のキャリア形成も意外に地道だという。働きながら勉強を欠かさずに力を付けていく。華麗な転職の背景には、たゆまぬ努力があるとする。

 第2回は、著者が80年代/90年代に米国の大手化学メーカーで携わってきたプロセスコントロールの革新を、主に紹介する。(日経テクノロジーオンラインによる要点)

 近年のIT技術の発展により、プロセスコントロール手法に大きな変化が生じています。以前は不可能だった、ビッグデータ収集システムを用いた短時間でのプロセス条件の調整(フィードフォワード/フィードバックコントロール)および、製品予測モデルの作成が、工場全体を通じて可能となりつつあります。さらに、このような新しい技術を実現させる技術者集団が出現しています。

 このプロセスコントロールの大きな変化を、私が経験した2つの光景を基に紹介したいと思います。1つめは1980~1990年代の経験で、データベースを使ったプロセスコントロールの試みです(2つめは、「技術革新-エピソード2:米国の長期投資が結実」として次回の記事で紹介)。私が勤めていた米国中西部の多国籍企業の化学メーカーは、ミネソタ州にプロセス開発用の実験プラントと、基礎実験プラントを保有しており、それらが技術者としての私の職場でした。

 これらの実験プラントを最初に見たときは、驚きました。まず、建物の中心の核爆弾シェルターに近いところに(当時はまだ、東西冷戦の時代でした)、メーンフレームコンピュータルームが作られており、米IBM社のメーンフレームコンピューターがドンとはいっていました。このコンピューターは、実験プラントの多数の装置に取り付けられているさまざまなセンサーにつながっています。センサーより送られてくる情報は、リアルタイムでコントロールルームのディスプレー上に、表示されます。