小林氏は、日本におけるADSL技術のパイオニアであり、1999年7月にはADSLサービスを提供するベンチャー「東京めたりっく通信」を創業した人物だ。黎明期の日本のブロードバンド市場に大きな足跡を残した。同社はわずか2年ほどで頓挫したが、小林氏と東京めたりっく通信は、その後ブロードバンド大国となる日本の通信市場に大きな礎を築いた。

小林 博昭(こばやし ひろあき)氏
小林 博昭(こばやし ひろあき)氏
リコーを経て、1981年にモデムを販売する日本パラダイン(後の日本AT&Tパラダイン)を創業。代表取締役社長兼会長に就任。1993年に同社長を退任し、新たにADSLモデムの販売やシステム構築を手がけるソネットを設立。1999年にはADSL事業を始めるために東京めたりっく通信を設立、代表取締役社長に就任する。2001年に東京めたりっく通信をソフトバンクに売却後、再びソネットの代表取締役として、光ファイバーの敷設やWi-Fiネットワーク構築などを手がけている。

日本のADSL業界は、2000年末に大きな転機を迎えた。

 NTT東西が2000年12月26日に、光ファイバー網を他の通信事業者に開放した。光ファイバー網開放の方針決定が日本の通信市場に与えた影響は計りしれない。この賃貸契約の第1号が東京めたりっく通信だった。

 開放を進めたのは当時の郵政省(現総務省)。NTTもADSLサービスを開始することになり、バックボーンを平等に貸し出すために光ファイバー網の開放が実現した。

 ただ、この時点で東京めたりっく通信の命運はほぼ尽きていた。既に資金がほとんど無くなっており、光ファイバー網の開放の恩恵が得られなかったからだ。

東京めたりっく通信は当時、ATM(非同期転送モード)でバックボーンのネットワークを構築していた。

 わずか5M~10Mビット/秒のATMで局当たり月50万円ほどをNTT側に支払っていた。東京に約100カ所のATM交換機を設営していたので、月5000万円もの費用がかかっていた計算になる。加入者が1万ちょっとしかなく、結局、稼いだお金をみんなNTTに支払っていたようなものだ。

 結局、2億5000万円ほどをバックボーンにつぎ込んだ。東京めたりっく通信は、最初に10億の資金を、続いて50億円の資金を調達した。2回目の資金調達時には本当は75億円集まったが、財務省からの指導で泣く泣く50億円に抑えた。それでも最後は資金が尽きた。

 光ファイバーの開放がもう少し早く実現していれば、もっと安価なバックボーンを構築できた。光ファイバー網が開放されて以降のADSL事業者はみな成功した。東京めたりっく通信は早すぎた。

 実は最初の1年、東京めたりっく通信は、国際電信電話(KDD、現KDDI)が無償で貸してくれたネットワークをバックボーンに使っていた。それをやめて自らバックボーンにATMを採用すると決めた時(編集部注:東京めたりっく通信の他のメンバーがATMを推したと言われる)、実は事業として難しいと思っていた。

 ADSLはバックボーンがあってこそのサービスだった。バックボーンが安価に提供されなければ、誰も成功しなかったと思う。