「どっちを向いて競争すればいいのか分からない」---これは本誌1993年2月1日号に掲載した、稲盛和夫・第二電電(DDI)会長の発言だ。1985年の通信自由化を機に、長距離通信市場に新規参入したDDIは、割安の料金を武器に売り上げと利益を一気に伸ばした。ところがシェア奪回に向けたNTTの値下げ攻勢により状況が暗転。そのときのインタビューだった。そして稲盛氏はこう続けた。「私が言いたいのは、競争のためのインフラが整備されないまま、政策的な自由化が先行したということ。そのため、NCC側は不安に思い、矛盾を感じてきている」と・・・。

 日本における通信の自由化とは、1社独占の日本電信電話公社(電電公社)を民営化し、併せて通信サービス市場に自由競争の原理を導入することだった。1985年以降、様々な競争軸でのユーザー争奪戦が繰り広げられた(図1)。ユーザーからすればサービスや事業者の選択肢が広がり、料金値下げの恩恵を被った。一方で、冒頭の稲盛氏の発言に見られるように、競争条件の不備や、監督官庁の朝令暮改を問題視する声がいまだに絶えない。

図1●日本の通信市場における競争軸 今回の挑戦者インタビューで話題になった競争軸と主なトピックを示したを示した。
図1●日本の通信市場における競争軸 今回の挑戦者インタビューで話題になった競争軸と主なトピックを示したを示した。
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 そこで日経コミュニケーションは今回、自由化後の通信業界で新たな事業や政策に挑んできた「挑戦者」6人にインタビューを敢行。通信自由化の功罪を聞いた。以下、時代を追いながら、インタビューの発言とそのときの業界情勢を紹介する。

「VAN戦争」終結でデータ通信が自由化

 1985年の通信自由化に先立つ1982年、データ通信の自由化を巡って、郵政省(現・総務省)と通商産業省(現・経済産業省)が激しいバトルを演じていた。それは「VAN戦争」と称されるほどだった。

 当時、郵政省の電気通信政策局データ通信課長として、VAN戦争の最前線に身を置いていた内海善雄氏は「通信と分離した情報処理サービスとして完全自由化を目指す通産省と、データ通信として規制する郵政省が真っ向対立し、どちらが所管となるかを争った」と振り返る(インタビューは第5回)。結局、郵政省はVANの一形態である中小企業VANを省令として公布することで、通産省との縄張り争いに終止符を打った。これは大きな分岐点だった。