発電所や化学プラントなどの大規模物理システムでの事故は莫大な人的・経済的・社会的損失を引き起こすリスクがある.その回避のために異常の早期検知・特定を,早期,かつ,人の力量に強く依存しない形で実現することが強く求められる.この目的のため,ICTシステムの監視で実績のあるインバリアント分析技術が大規模物理システムでも有効に働くと考えた.本稿では,この仮説に基づき,大規模物理システムの1つである原子力発電所の監視にインバリアント分析技術を適用した事例と,そこから得られた知見を紹介する.

1.はじめに

 本稿では,インバリアント分析技術[1]の大規模物理システムへの適用について,原子力発電所の監視に適用した事例と,そこから得た知見を紹介する.

 インバリアント分析技術は,ビッグデータからシステムの挙動を網羅的に把握し,異常を早期に検知する分析技術である.このインバリアント分析技術を用いたICTシステムの監視ソフトウェアがWebSAM Invariant Analyzer[2]であり,2009年に製品化されて以来,さまざまなICTシステムの監視で用いられている.そして,2014年には,原子力発電所の監視向けに,インバリアント分析技術を用いた故障予兆監視システム[3]を開発し,中国電力(株)島根原子力発電所に提供した[4].以下,第2章では,原子力発電所をはじめとする大規模物理システムの監視における課題を説明する.第3章では,インバリアント分析技術の概要と,ICTシステムにおける適用事例を示す.第4章では,インバリアント分析技術の大規模物理システムへの適用事例として,原子力発電所の監視での有効性実証に向けた活動を紹介し,その活動を通して得た知見を説明する.最後に,第5章で本稿をまとめる.

2.大規模物理システムの監視における課題

 我々の生活は,大規模物理システムよって支えられている.物理システムは,ICTシステムとは異なり,物理法則に従って実社会で役割を果たすシステムである.そのうち大量のコンポーネントによって構成されるものが大規模物理システムであり,発電所や化学プラント等がある.このような大規模物理システムは,我々が便利で快適な生活を送るために必要な電気や製品を生み出しており,現在の社会システムの根幹を担っている.

 その一方で,大規模物理システムにおける事故は,一歩間違えば莫大な人的・経済的・社会的損失をもたらしかねない.たとえば化学プラントでは,2011年に爆発火災による死亡事故が発生し,事故発生から約1年半の間に144億円の損失が発生している.このとき,水質汚濁防止法の基準値を超える発がん性物質が海に流出するという環境汚染も発生している.また,2012年には別の化学プラントで,爆発火災による死亡事故が発生し,工場内の2プラントが損傷するだけではなく,近隣家屋が999件損傷している.

 このような事故を含めて化学プラントのような危険物施設での事故は,近年,増加している.総務省が平成26年(2014年)に発行した資料によると,危険物施設からの火災・流出事故は,1989年以降で事故が最も少なかった1994年と比べて,2013年には,事故件数が2倍になっている[5].一方で,危険物施設数はその間に22%減少していることから,危険物施設における事故リスクは高まっているといえる.

 近年の事故増加の原因は,化学プラントを取り巻く背景にあるとの指摘がある[6],[7],[8].それは,システムのブラックボックス化,現場の対応能力の低下,設備劣化の3つに分類できる.システムがブラックボックス化した背景には,システムの大規模・複雑化,システムの構成要素である設備の自動制御化がある.現場の対応能力が低下した背景には,設備管理や保全業務の分業化による知識の偏在,故障現象や建設機会減少による知識や経験の不足による危険予知能力(リスク感性)の低下,熟練技術者の退職がある.設備劣化は,2013年に物的要因で発生した事故原因の1位であり,1994年から2013年にかけての増加件数が最も多い[5],[9].

 これらを総合して,システムのブラックボックス化と現場の対応能力の低下によって,人の力量に強く依存した安全確保が難しくなってきていると同時に,設備劣化による事故リスクが増加していることが,化学プラントの抱えている課題であると考える.

 化学プラントにおいて事故リスクを引き上げる原因と評価されているシステムのブラックボックス化,現場の対応能力の低下,設備劣化は,ほかの大規模物理システムでも一部顕在化している[10].そのため,化学プラントに限らずさまざまな大規模物理システムにおいて,同様の事故リスクが深刻な課題になってくるに違いない.今後,その解決のために人の力量に強く依存しない安全確保の仕組みがさまざまな大規模物理システムでますます重要になると考える.

 一方で,大規模物理システムにおける事故を防止するためには,異常の早期検知・早期特定が有効である.異常の早期検知・早期特定によって,異常の対処にかけられる時間をより多く確保できるためである.その結果,事故を未然に防ぐなど,被害を最小化できる可能性が高い.

 しかし,異常の早期検知に対する従来のアプローチでは,人の力量への依存度が高く,今後の持続性に課題がある.従来のアプローチでは,センサデータの値を単独で監視する閾値監視,熟練技術者による視覚や聴覚等の五感による確認,熟練技術者による危険予知が用いられている.閾値監視は閾値の設定の仕方で有効性や運用性が左右されるが,その閾値を設定するのは熟練技術者である.したがって,いずれの検知方法も人の力量に大きく依存していることになる.