今回は、ブランク氏の人生の旅(=人の本質のパターン)に関する話題です。不遇な少年期を脱したブランク氏が、職歴を重ねるに連れて視野を広げ、自分が身を置く集団や階級、文化を見つけていった過程を振り返るものです。(ITpro)

 J.D. バンス氏著の「ヒルベリー・エレジー」(田舎者の哀歌)という大変良い本を読み終えたばかりです。他人の人生が、私の人生のストーリーと不気味なほど似ていることに、奇妙な気持ちになりました。

 バンス氏の著作と私の人生の物語は、機能不全となった家族からの疾走と、地域の集団・階級・文化からの逃避を説明する、典型的な「旅」(=人の本質のパターン)を示しています。

 以下は、私の物語です。

限られた地平線

 私は、ニューヨークの片親の家庭で、 今では労働者階級と呼ばれている、中産階級の底辺にある、不安定な家庭に育ちました。

 私たちの近所で成功した起業家と言えば、小規模事業の起業家のことでした。私の両親は、離婚するまで小さい食料品店を営んでいました。近所の人のなかには、薬局や家具店を営んでいる人もいましたが、ほとんどは、小売店や建築業で9時から5時まで働く従業員でした。

 私の知っている人たちで、ホワイトカラーの人はおらず、企業の管理職にある人はもちろん1人もいませんでした。外食とはピザか、ご馳走のときは惣菜店の食事でした。私は大学に行くまで、本当のレストランで食事をしたことはありませんでした。そのとき私が発見したことは、「サラダ」と呼ばれる食べ物が、メイン・コースの前に注文するものだったということです。

 私が知っていた範囲で、小さなお店以外の「会社」を創業した人はいませんでした。両親の世代の親戚で、大学に行った人はいませんでした。私の社会階級で、両親が移民して来た家族の子供たちに期待する最高の願望は、医者や弁護士、あるいは会計士で、キャデラックに乗り、郊外の住宅に住むことでした。

 高校を卒業する私たちの願望も、それ以上に高いものではありませんでした。仕事で疲れ切っていた、私たちの進路指導員、出来の悪い学生たちのほとんどを、最低の肉体労働者にあてがう達人でした。私の代の卒業生は1000人で、「賢い子供」は先生になりたがりました。中には、作家、詩人や科学者を願望する生徒もわずかにいました。進路指導員は、彼らを良い州立大学に誘導しました。

 高校時代の私は、もっぱら1人暮らしで、それ以前の5年に比べると大きな改善でした。2~3マイル先の叔母の家を訪問する短い時間は、私にとって正気と安定をもたらす天国のようなひとときでした。彼女の家族が一緒に食事をするのを見たり、彼らが週末の外出や休暇の説明をするのを聞いたりして、この家族はどうしてこんなに奇妙なのかと考えたことを覚えています。これが、普通の家族が一緒にすることだと気付くまで、長い時間がかかりました。

 私の母親はほとんど家にいたことがなく、宿題のことを聞いたことも見たこともありません。成績表には、自分でサインしました。私の高3の最後の成績表は、お慈悲の「65点(通過最低点)」が4科目、98点が1科目ありました。大学を志願したほとんどの同級生は、 地域の大学か、ニューヨーク州立大学を選びました。当時はベトナム戦争の真最中であり、大学に行くと徴兵猶予がもらえたのです。