今回の投稿は、ブランク氏の空軍時代の旧友と再び連絡を取り合った際のエピソードです。40年ぶりに会話した友人の言葉から、ブランク氏は明らかに違う人生観を感じ取りました。(ITpro)

 ある人からの電話を受けて、私が思い出したことがあります。それは、ほとんどの人が人生をあたかも「運命づけられた」ものとして生きる一方で、別のある人は人生を変えようと戦う生き方を選ぶということです。

空軍時代のブランク氏
空軍時代のブランク氏
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 私は19才で、ベトナム戦争の時代に米国空軍に参加しました。エレクトロニクス学校を終了して最初に配属されたのは、フロリダの戦闘機基地でした。私のルームメイトのグレンとは、東南アジアで別々の空軍基地に配置されましたが、フロリダとタイで親友になりました。

 表面上、グレンと私の生い立ちは全く違っていました。彼はネブラスカ州で牧歌的な少年時代を過ごし、「ビーバーちゃん」(訳注:米国で1957年から1963年にテレビ放送されたホームコメディ)のビーバーの両親のような家庭で育ちました。私の生い立ちは全く違い、外来病院のように混雑したニューヨーク市のアパートで育ちました。

 しかし私たちは、19才の青年ならではの結びつきで、親友になりました。私はグレンに作家リチャード・ブローティガンを紹介し、2人でR.D.ライングの「The Politics of Experience」を苦労しながら読み、2人でエバグレーズ国立公園を探索しました(当時新しく国立公園になったばかりで、沼への板敷きの遊歩道には柵がなく、遊歩道の上で甲羅干をしているワニたちは、近寄って触ろうとするまでは、全く剥製のワニに見えるということを、実際に発見しました)。

 タイでは、空軍基地から2~3日逃げ出し、タイを汽車で横断し、グレンの空軍基地を訪問する方法を考え出して、あたかも基地を訪問するよう命じられたかのように、全ての人を納得させたものでした(戦時中は、容易なことではなかったのです)。カオス、戦争、私たちの年齢と興味が、私たちを深く心から結びつけました。

 ベトナム戦争が終息に向かうとき、私たちは米国本土の別々の空軍基地に配属されました。よくあるように、私たちが年を重ねるに連れて、私たちの間に他の多くの人や出来事が入り込み、それぞれ自分たちの人生に没頭し、やがて連絡が途絶えました。

40年の時を経て再び

 先週、昔の私を知っている空軍関係の人だけが分かるタイトルのメールを受け取りました。そのメールのタイトルは私の注意を引きましたが、その下の簡単な文章で、私は一瞬唖然としました。そこには「長年、ふと君を思い出したことがあります。先日の夜、君の夢を見ました。翌朝、夢を覚えていたので君の名前をグーグル検索したところ、何と、君を見つけました。少し圧倒されましたが…」とありました。

 さぞ圧倒されたことでしょう。グレンから最後に便りがあったのは、40年も前だったのです。

 私は満面の笑みを浮かべながら、グレンと1時間ほど電話し、「私たちが若くて、クレージーで愚かだったころ」の、子供たちにはとても話せないような話をしました(ソーシャル・メディアが若者の無分別を記録する前の出来事だったことを、私は感謝しています)。グレンと話をして、私は自分のあだ名まで思い出しました(そのあだ名を思い出しただけで身体がすくみます)。長年忘れていた仲間意識が、走馬灯のように当時を思い出されました。グレンがその後の40年間の人生を説明し始めると、私たちは同じ上級エレクトロニクスの訓練を受け、同じ空軍基地に配属され、基本的には同じ機会を与えられましたものの、2人の職歴と人生は、全く異なった道をたどったのが明らかになりました。

 彼と話をしながら、私はどうして2人の人生がこんなに異なったかの理解に苦しみました。彼の話を聞いているうちに、自分の人生を説明するのに私が絶対に使わない言葉が使われているのに気付きました。グレンは自分の人生を選択するのに、「運命づけられた」という言葉を何回も使いました。彼の職業の選択は「運命づけられた」、彼の住んでいる所も「運命づけられた」、彼の結婚と離婚の相手も「運命づけられた」とのことでした。「運命づけられた」という1つの言葉が、私たちの世界観と人生観の違いだと気付きました。

 運命づけられた――。