シリコンバレーと防衛産業との密接な関係は、ブランク氏が「シリコンバレーの秘密の歴史」としてまとめていますが、今回のコラムもその関係性に関するものです。軍隊もスタートアップ企業も、予測不能なことへの対処を求められるという点で共通しています。(ITpro)

 平時の米国軍部は、不動で柔軟性の無い官僚組織です。それが戦時になると、驚くべきスピードで、組織変更を取り入れて適合します。

 シリコンバレーの新興企業であるBMNTは、戦闘で学んだリーン・ローンチパッド手法に、先端技術の専門知識とスタートアップ企業のスピート感を統合しようとしています。

 まず、歴史的背景を説明しましょう。

第2次世界大戦

 第2次世界大戦において、米国政府は兵器を開発製造するアプローチを再設計しました。軍部が使う兵器の全てを、自分たちで設計していた過去と決別し、 科学研究開発局(OSRD)と呼ぶ組織の下に、大学関連の1万人の科学者とエンジニアを集め、民間人が運営する武器開発研究所(そのほとんどが大学に拠点があった)で作業したのです。

 OSRDの任務は、軍部の兵器システムを開発し、軍事的問題を解決することでしたが、その任務をどうやって達成するのか、研究所をどう構成するかについては、広範な自主性が与えられていました(開発された兵器は、米国企業が製造しました)。

 OSRDは、レーダー、電子兵器、ロケット、音波探知機、近接信管、ナパーム弾、バズーカ砲といった先端エレクトロニクス機器、およびペニシリンやマラリア病を治療する薬などを開発しました。OSRDの一つのプロジェクトであるマンハッタン・プロジェクト、すなわち原子爆弾の開発は、最も秘密性の高い最重要プロジェクトで、個別のプロジェクトとして独立しました。カリフォルニア大学が、ロスアラモス研究所で原子爆弾の研究開発とデザインを運営管理し、米国陸軍が、ロスアラモス研究所の施設とプロジェクト全般の運営管理をしたのです。

 終戦後、米国政府はOSRDの機能を分割しました。核兵器は 新しくできた米国原子力委員会(AEC)に、基礎兵器システムの研究は国防省(DOD)に移行され、そしてバイオメディカルとヘルス分野は米国立衛生研究所(NIH)に戻されました。1950年に、米国大学での基礎科学への米国政府の支援は、国立科学財団(NSF)の任務になりました。これらの独立した研究組織は、基礎研究と応用研究のいずれも支援します。