ここ数年は、「グローバル人材」についての議論が花盛りだ。様々な切り口から、色々な意見が氾濫している。
 
 例えば、グローバル人材には英語力やTOEICがどうとか、英語よりも日本語や日本文化をきちんと学ぶべきだとかいうミクロな議論もある。一方でグローバル人材とは、これからの時代における生き方そのものであるというような、マクロ過ぎて捉えどころのないものもある。

 「日本の若きグローバル人材」シリーズを何回か書いてきて、あまりにマクロな視点で議論すると、総花的な話が多くなってとりとめがなくなってしまう。ミクロに国・言語・文化・業種・職種・スキル・ビジネス状況を各論で論じたり、自分の経験談を書いたりしても、参考になる場合もならない場合もあるだろうと、書きながら感じていた。

 そもそも「グローバル人材」という言葉の意味するところも、国、企業、個人それぞれの立場で違ってくるだろう。

 例えば、国が1兆円という巨額の予算をつけて推進している、本の経済再生と将来的発展のための「グローバル人材育成」。この場合は、国の立場からすると、少子高齢化や様々な理由により国内経済が衰退の一途をたどっている現状を打開してくれるような、世界に飛び出して大活躍し日本の繁栄に貢献する、スーパースター的人材を想定しているのかもしれない。

 また、企業の立場からしても、まだ自社ビジネスの立ち上がっていない国や地域に送り込めば、ゼロ状態から短期間で収益を上げて日本の本社に親孝行をしてくれる、というような、やはり夢のようなスーパースター人材を望んでいるケースがほとんどではないか。

 国も企業もそういうスーパーな人材を育成すべく、グローバル人材育成研修に予算を割り当てて投資しているのが現状だろう。

スーパーな人材は帰属意識を持つのか?

 しかし、そういうスーパースターになれるポテンシャルのある人材は、果たして国や企業に対する帰属意識を継続的に持つのだろうか。

 企業に巨額の利益をもたらすような発明をしたにも関わらず、会社から小額のボーナス報酬しかもらうことができなかったため、訴訟に踏み切ったノーベル賞受賞者の話は有名だ。