もうすぐ橋下徹氏が大阪市長を辞める。橋下氏が知事そして市長を務めた7年間、筆者は大阪府市の特別顧問として一緒に仕事をしてきた。今月と来月はそれについて上下2回で振り返ってみたい。

「橋下=ガンダム、アムロ少年説」

 橋下氏に初めてお会いしたのは、2008年の知事選直後、NHK大阪放送局の特番の生放送のスタジオだった。長い番組で、話題は都市再生から財政問題、行革まで幅広かった。

 私はあまりテレビを見ないので、選挙戦に入るまで実は「橋下」が「はしもと」だということすら知らなかった。だが番組で30分ほど話すうちに「この人はただ者ではない」と直感した。私は経営コンサルタントなのでたくさんの経営者と修羅場をともにしてきた。剛腕のオーナー経営者のオーラと感覚のさえを彼に感じたのだ。

 数日後、電話で特別顧問への就任依頼があり、快諾した。その後の知事としての快進撃は衆知の通りだが、「あの人は本当に実力があるのか」という報道関係者の問いに対し、私は「橋下=ガンダム、アムロ少年説」を唱えた。すなわち、橋下青年は知事というガンダムロボットを操縦するアムロ少年である。少年の純真さを失わず、祖国のために戦う。時には負けそうになるが、いくさの度に強くなると。

 知事に就任した当初には、国とのけんかのやり方も指南したがこれは成果があがった。たまたま直轄負担金問題、関空問題など、私の古巣の国土交通省に物申す機会が多かったが、目の前で積年の課題がどんどん解決していく。うれしかったが不思議でもあり、まるで魔法を見るような気がした。

 今にして思うと、府民の目線に立った素朴な疑問を、ストレートに国に投げかけて功を奏した。メディアも意気に感じ、若い知事の挑戦を好意的に報道してくれた。こうして初期の橋下改革はマスコミとの連携プレーで見事にテイクオフした。

 知事は庁内でも抜群の統率力を発揮した。懸案があると、まず行政パーソンに案を作らせる。次に私たち顧問に足りない部分を指摘するよう依頼する。するとたいてい行政側は反論する。知事はそれぞれの言い分を存分に言わせた上で、最後の最後に裁判官のように仕切る。このへんの技は知事になって2年目ごろからとてもさえてきた。

 やがて橋下知事は府の事業を見直していく中で二重行政の問題、つまり何をするにしても、目の前に大阪市という大きな岩があることに気がつく。そして府庁の改革をやりながら、2年で大阪の複雑な政治と行政の学習を終えて、2010年に大阪都構想に行き着いた。

地域政党の旗揚げ

 2010年春、橋下氏は「大阪維新の会」を立ち上げた。私は大阪維新の会に請われ、躊躇(ちゅうちょ)なく府の特別顧問を辞し、同会の政策特別顧問となり、2011年秋のダブル選挙に向けたマニフェストづくりと都構想を具体化する作業を手伝い始めた。

 私は今までの行政改革では政治的動きとは一線を画してきた。もともと黒子を旨とする経営コンサルタントの出身だし、客観中立を重んじるアカデミズムに籍を置くからだ。しかし大阪維新の会の「地域政党」の理念には熱く共鳴した。出身が大阪だからではない。もともと、日本の将来は地域の自立にしか見いだせないと考えていたからである。

 大阪維新の会での仕事はとても楽しかった。とりわけ「塾議会」で住民有志の方を公募で招き、一緒にマニフェストを練り上げる作業は楽しかった。地域主権の時代を望む人々の強い意志を感じる素晴らしい機会でもあった。

 ちなみに、この時に作ったマニフェストに記した多くの改革は2005~2007年の関淳一元市長の時代の改革で積み残されたものだった。組合問題などに取り組んだ関元市長は、再選後に地下鉄やバスなどの民営化を進めようとしたが、市議会と対立し、07年秋の選挙で再選されず、民営化プランも全てお蔵入りになった。私のダブル選挙に向けたマニュフェスト作りはそのリベンジでもあった。

(次回に続く)

上山 信一(うえやま・しんいち)
慶應義塾大学総合政策学部教授
上山 信一(うえやま・しんいち) 慶應義塾大学総合政策学部教授。旧運輸省、マッキンゼー(共同経営者)等を経て現職。国土交通省政策評価会委員(座長)、大阪府・市特別顧問、新潟市政策改革本部統括、東京都顧問および都政改革本部特別顧問も務める。専門は経営改革と公共経営。著書に『検証大阪維新改革』(ぎょうせい)、『組織がみるみる変わる改革力』(朝日新書)、『公共経営の再構築-大阪から日本を変える』(日経BP社)、『大阪維新 橋下改革が日本を変える』(角川SSC新書)、『行政の経営分析-大阪市の挑戦』(時事通信社)など多数。