「大阪都構想」への賛否を問う5月17日の大阪市の住民投票に向けて、賛成・反対の両派の主張が熱を帯びている。両者の主張を聞くと、最大の争点は「大阪市役所の解体の是非」にあるようだ。私はたまたまこの10年間、大阪市役所と大阪府庁の改革に深く関わってきた。わずか10年ではあるが、歴史の証人としての立場から大阪市役所の改革を振り返ってみたい。

改革の皮切りは、10年前の職員厚遇問題

 今から10年前、大阪市役所は職員厚遇問題(ヤミ年金、カラ残業など)で猛烈な批判を浴びた。テレビの街頭インタビューでは「大阪市役所は大阪市から出ていけ」とまで言い放ったおばさんがいた。当時の市役所は、それほどまでに市民から恨まれていた。

 その後、市役所の改革は進んだのか。経費節約や採用抑制は進んだ。窓口でのサービスも良くなった。しかし地下鉄、バス、水道の民営化などの抜本改革は、すべて市議会が拒否した。全国の政令市で最悪の財政状態に照らせば、大阪市役所、いや大阪市議会にはもはや自浄能力がないと批判されても仕方のない状況である。

変われない原因は議員の選挙制度

 なぜか。原因は、選挙制度にある。狭い市内が24区の中選挙区に分けられ、どこの会派も過半数が取れない。一方でわずか3000~4000票で当選する議員がいる。2世、3世の世襲議員も多く、身の回りの支持者の意向にばかり忠実で政策にあまり興味がない。彼らは地元の利害を市役所に伝えるロビイストの仕事に徹し、そこでの影響力を最大化することしか考えない。

 その結果、議会での質疑は、しばしば総会屋とのやりとりのようになり、驚かされる。多くの議員は、地下鉄やバスの民営化、博物館の独立行政法人化など、議員の影響力が少しでも損なわれる改革案に反対する。旧国鉄の改革の場合は労働組合が障壁だったが、大阪市役所の改革では市議会が改革の最大の障害にみえる。

 だが大阪都構想が実現すると、市議会は消滅し守旧派の議員たちは議席を失う。だから大阪都構想は国鉄改革・郵政改革の時と同様に激しい攻防戦となる。

関市長による改革の挫折

 私は東京に住んでいるが、生まれは大阪市で20歳まで府内で暮らした。そんな縁もあって10年前から大阪市役所と大阪府の改革に関わり始めた。

 当初は市の助役だった大平光代さんに頼まれ、大阪市の職員厚遇問題の調査委員会の委員になった(福利厚生制度等改革委員会)。当時の大阪市役所はひどかった。職員が自分で買った背広の内ポケットに「OSAKA CITY」というネームを入れたら制服とみなし、市役所から補助が出た。カラ残業だけでなくヤミ年金まであったのにも驚いた。人事課が現役職員向けの給与の一部をこっそりと(しかし組織的に)積み立て、OBに定期的に渡していた。

 そのほか年俸1300万円の市バスの運転手さんが6人もいるとか、学校給食の配送会社が60年以上もずっと一社独占だといったニュースが世間を驚かせた。職員の大多数はまじめで優秀な職員だったが、ヒアリングでは口が堅かった。労組を恐れていたのである。

 職員厚遇問題の根っこには不適切な労使関係があった。そこで当時の関市長は、市役所全体の事業経営の見直しとガバナンス改革を行うと決意し、私は市政改革本部の本部員、そして改革推進会議委員長として一連の改革の設計と実施に関わった。マッキンゼー時代の仲間にボランティアで参与として手伝ってもらい事業分析をした。すると、どの事業についても他の市役所よりも2~3割増しの職員が配置され、人件費も2~3割高かった。

 やがて私は関市長に地下鉄とバスの民営化を提言する。だがこの頃から関市長は改革のやり方を巡り議会と対立し、やがて2007年秋の市長選挙では労組の支援を得た平松邦夫氏に敗れた。

橋下改革で再び市役所の改革が始まる

 平松氏が市長になり、私は市役所の改革から身を引く。だが3カ月後、橋下徹氏が大阪府知事に当選する。私は選挙直後のNHKのスタジオで橋下氏に初めて会った。生放送の最中に「この人はただ者ではない」と感服。その数日後、府の特別顧問になった。

 2008年から3年間の橋下改革は破竹の勢いだった。公務員制度の見直し、外郭団体の整理、研究所の独立行政法人化、府立大学の改革など、どんどんやった。当時の橋下氏は自公推薦の知事だったので、議会運営も円滑だった。だが大阪では港湾、地下鉄など主要な事業はほとんど大阪市の傘下にあった。府が担当する事業と権限は限られる。知事はほぼ2年で府庁内の改革をやり終えた。

 橋下氏は国に直轄事業の負担金問題の見直しや、関西空港の赤字問題の解決を迫った。その結果、伊丹空港が民営化され関空と統合されるなどの成果が出て、国を相手とする闘いは結構うまくいった。しかし、大阪市の平松市長(当時)と始めた府市の水道事業の統合協議は、まったくうまくいかなかった。しだいに市と府の二元行政の構造自体に大阪が変われない原因があると気がつき始める。そして2010年1月ごろから大阪都構想を提唱し始める。

 政治的な転機は、大阪市が建てたワールドトレードセンターを府の第二庁舎にすることを巡る議会との対立でやってきた。賛成派の筆頭は、知事のほかは当時、自民党にいた松井一郎さん(現・大阪府知事)と浅田均さん(前府議会議長)だった。そして2010年4月に府議会自民党は分裂し、松井さんと浅田さんたちは大阪維新の会を結成し、橋下氏が代表に就いた。大阪維新の会は翌2011年春の統一地方選挙で躍進し、府議会で過半数を、市議会で最大多数を得る。そして同年秋のダブル選挙で知事・市長がともに大阪維新の会という状況を築いた。

 私もこの時から府と市の両方の特別顧問として、府市統合本部を舞台に様々な事業の統合や民営化の青写真づくりを支援した。

法制化から住民投票へ

 翌2012年は衆議院選挙の年である。大阪維新の会は国政進出をもくろみつつ、大阪にも東京と同じような「特別区制度」を導入するための地方自治法改正を政府に迫る。その結果、「大都市地域における特別区設置に関する法律」が成立する。その後、大阪府議会と市議会で都構想の具体的な検討がなされ、2015年3月に大阪市廃止と特別区設置の協定書が府議会と市議会で可決された。残るは5月17日の住民投票だけというのが今の状況である。

都構想の全国的意義

 これまでわが国の政治は、どちらかと言うと地方を重視し大都市問題に目を向けてこなかった。だが、人口が大都市に集中し、大阪を筆頭に困窮状態に陥る大都市が出てきつつある。また、超高齢化社会になると、内需拡大や福祉・医療の問題でも大都市の政策がカギとなる。この10年の大阪の動きは、大阪だけの問題ではない。大都市を舞台に日本が大きく変わる胎動と見るべきだろう。その意味で5月17日の住民投票の結果に注目したい。

上山 信一(うえやま・しんいち)
慶應義塾大学総合政策学部教授
上山 信一(うえやま・しんいち) 慶應義塾大学総合政策学部教授。旧運輸省、マッキンゼー(共同経営者)等を経て現職。国土交通省政策評価会委員(座長)、大阪府・市特別顧問、新潟市政策改革本部統括、東京都顧問および都政改革本部特別顧問も務める。専門は経営改革と公共経営。著書に『検証大阪維新改革』(ぎょうせい)、『組織がみるみる変わる改革力』(朝日新書)、『公共経営の再構築-大阪から日本を変える』(日経BP社)、『大阪維新 橋下改革が日本を変える』(角川SSC新書)、『行政の経営分析-大阪市の挑戦』(時事通信社)など多数。