ニューヨークヤンキースに所属するイチロー選手が、遂に4000本安打を記録した。誠におめでたい記録に触れる中で、実現しなかった“幻の記録”を思い出した。話は、今をさかのぼること10年前のことだ。
2003年春にシアトル・マリナーズが日本での開幕試合を予定していた。この際に球場で、マリナーズ所属だったイチロー選手が始球式をするというイベントだ。高校時代は、投手として甲子園に出場したイチロー選手が投球する。しかも大リーガーとして日本のマウンドでとなればヒット数とは別の意味で、貴重な記録と記憶を残しただろう。
幻となった理由は米国の対イラク戦争で選手の移動が制限されて、試合自体が中止になったためだ。残念な事態だったが、このイベントを仕掛けたのは、米スターバックスのハワード・シュルツ会長。シュルツ会長は、大の野球ファンで、スタバとマリナーズは共にシアトルに本拠を置くこともあり、2人の交流は深い。
スターバックスと言えば、シアトル系コーヒーとして、日本に上陸してから早17年。すでに国内に定着したブランドだろう。日本から米国に渡って定着したイチロー選手とは逆のコースを歩んだことになる。
イチロー選手への支援からも、日米の“先進国ブランド”と映ったスターバックスだが、象徴的と感じるのは、この年あたりからデータ分析を強化して、グローバルブランドへと進化したことだ。
始球式を中止に追い込む遠因となったイラク戦争。戦争はどんな場合でも多くの被害をもたらすが、その背景を突き詰めると、「米国をはじめとする先進国だけが繁栄するのは許せない」との雰囲気が途上国で強く高まっていたのは確かだ。米国で人気のスポーツや衣料メーカーが、生産においてアジアの児童労働に関わり、世界的に強い非難を浴びたりしたのもこのころだ。
シュルツ会長は、データ経営を強化して、そうした経営とは一線を画した。典型例は、コーヒー豆のグローバル適正調達。その要点は生産国のコーヒー農家が確実に利益を出せる体制作りを固めることにある。とはいえ、コーヒー豆は相場商品だ。気候によって生産高も変わり、おいしさも価格も変動する。スターバックスの店舗が世界各地で増える中で、これをいかに適切に行うか。人材・組織・データをいち早くそろえたスターバックスは、今でいうデータ分析の先駆けなのだ。
この体制はいくつかの組織と制度が支える。社内には数百人も及ぶ国際調達の専任部隊を設けて、世界中から最高品種を選ぶ。世界のコーヒー豆のうち、スターバックスの選定基準を満たすのはわずか数%という厳しさだ。
こうして国と農園、価格、契約年数などを絞り込んでいく。もっともそこから単に調達するわけではない。農家の利益を保証するための様々な施策がある。
具体的には、小規模生産者への技術指導や資金援助。買い付けに値する高品質の豆を一定量以上、しかも継続して生産できるように土壌改善や品質改良の指導をしたり、場合によっては資金を援助したりする。農家だけではなく関係者の支援や教育も欠かさない。就業者の教育支援から、加工工場の整備、さらに輸送業者の確保までサプライチェーンを検証し、整えることで就業・出荷体制を安定させる。
真骨頂は買い付け価格の指数化にある。スターバックスが調達した価格を細かく算出して、ニューヨークの商品取引所の売買価格と比較する。取引所の価格をベンチマークにして、スターバックスは需給関係ではなく、品質を優先して買い取ることを方針に掲げ、安定した価格を保つ。これらのデータは投資家らに開示する。もちろん農園の利益保証とともに、スターバックスにとっても利益を保てるように安定調達を満たすことが大切だ。スタバの店舗からは見えないデータ経営なのである。
一方で、プロ野球界の話に戻ると、この10年で一気にグローバル化した。大リーグの日本訪問だけではなく、世界各国から代表チームを招く「ワールドベースボールクラシック」を始めて、ファン層を拡大。アジアや中南米から大リーグに渡るプロ選手も増えて、所属選手も多様化した。それに伴い、個性的で文化的背景の異なる人材を、正確に評価するためのデータ分析手法も発達。今では「セイバ―メトリックス」の名称で根付いており、球団運営においてもデータ経営が定着している。
データ分析と言えば、統計学や数学の範囲で捉えがちだが、実は企業経営のグローバル化や人材の多様化といった変革を伴う際に必要となる。人材や組織の運営に関わる枠の大きいものなのだ。
ところでイチロー選手の始球式の機会はもう二度とないのか。2年ほど前にシュルツ会長に聞いたところ「また機会があれば」とのことだった。実はニューヨーク生まれのシュルツ会長は、もともとヤンキースの大ファン。いつか実現するのではないかと勝手に期待している。