関係者全員が立ち会う中、係りの人間が物々しく分厚い文書を二重の布で包む。その後ロウソクのロウで封をし、それを手渡す。何かの儀式ではない。インドネシアにおけるRFP(提案依頼書)受け渡しの1シーンだ。

 こうしてインドネシアの地理空間情報局(BIG)からRFPを受け取ったNTTデータの楠田哲也ジャカルタ駐在員事務所所長は、その45日後、回答書を提出するためにBIGに向かっていた。車には、厚さ10センチメートルの回答書を12部積んである。前日は夜を徹して書類に不備がないか、確認作業に明け暮れた。

 ところが、BIGのオフィスがあるジャカルタの郊外に向かう途上で、同乗していた担当者が「あっ」と叫んだ。何ごとかと尋ねると、回答書を収めたバインダーに、所定の表紙をつけ忘れたのだという。それがなければ、受理されないかもしれない。必死にプリンターのあるネットカフェを探し、大慌てで表紙を作成。事なきを得た。

 インターネットやメール経由でRFPを受け取ることも多い日本のIT業界から見れば、非効率に見えるかもしれない。「表紙を忘れたくらいで、受理されないことはさすがにないだろう」とも思うかもしれない。

 ただしアジアにおけるビジネスでは、日本の常識は持ち込まないに越したことはない。

通用しない日本の時間感覚

 筆者は日経コンピュータ8月8日号の特集記事「返上『ガラパゴス』」の取材で、ベトナム、台湾、インドネシアを訪れた。グローバル市場での成功は、日系IT企業にとって積年の悲願。その足掛かりは地理的に近く、成長著しいアジア市場にあると考えたからだ。

 日系IT企業が主導するシステム構築プロジェクトについて、発注者であるベトナム、台湾、インドネシアの官公庁や企業に取材をする一方、現地で奮闘する日系IT企業の担当者にも話を聞いた。

 取材を通じて、日本の常識はアジアでは非常識かもしれない、という意識を強く持つべきだと強く感じた。

 よく言われるのが時間感覚だ。自分が訪問する側の立場の場合、日本なら5分前に到着するのが当たり前だろう。10分でも遅刻しようものなら平謝りは避けられない。

 ところがインドネシアに駐在するパスコの上杉晃平国際統括事業部技師長は、「待ち合わせ時刻はあくまで目安。30分は前後する可能性が高い」と笑う。当地では、商談相手が遅刻してきたからと腹を立てるのは、非常識なのかもしれない。

 とはいえ、身に着いたビジネス習慣は一朝一夕には止められない。そう聞かされても、日本のビジネスマンの多くは、やはり5分前には到着しようとするのではないか。

 ただし、5分前に到着するのもそう簡単なことではない。交通事情が日本とは大きく異なるからだ。

 インドネシア滞在の最終日、ジャカルタの東にあるカラワンで取材を終えた筆者は、空港まで車で移動した。いくら渋滞に巻き込まれたとしても、日本の感覚なら2~3時間で到着できる距離だ。

 ところが、夕方に出発して空港に到着したのは23時前。5~6時間かかった計算になる。およそ70キロメートルの距離に渡り、延々と渋滞が続いたためだ。

 大規模な渋滞はジャカルタ市内で頻繁に発生するため、正確な移動時間を予測することは至難の技である。

常識を捨て去る

 一方、インドネシアの常識は、ベトナムでは通じないだろう。例えばベトナム人のIT関係者は冗談交じりに、「ベトナムでの商談の席に、酒は欠かせない」と言っていたが、これはインドネシアでは有り得ない。同国はイスラム圏であり、飲酒は原則禁止だからだ。

 パスコの上杉技師長は、インドネシアに赴任する前はタイに4年間駐在していた。タイの商習慣は、日本よりはるかにインドネシアに近いと思われるが、それでもインドネシアでのビジネスに当初は戸惑うことが多かったという。

 ASEANと一口に言っても、国が違えば仕事の進め方や常識も変わる。だからアジアのビジネスは難しい。

 とはいえアジアが、日系IT企業にとってまたとない有望市場であることは間違いない。「日本ならばこうだ」という常識を捨て去り、腰を据えて付き合う。これがアジア市場、ひいてはグローバル市場で成功するための最低限の心構えかもしれない。