先日、警察大学校の講師を長く務めていただいた佐々淳行先生が、ご高齢のために退任された。佐々先生は、読者の皆さんもよくご存じの危機管理の大家であり、ご講義を聞けなくなるのは寂しくてならない。

 その一方で、佐々先生がご経験された東大安田講堂事件は1969年、連合赤軍あさま山荘事件は1972年であり、それ以後に生まれた読者も少なくないはずだ。ちなみに、1984年に警察庁に入った筆者は、1985年の10.20成田現地闘争や11.29浅草橋駅放火事件など極左暴力集団の最後の街頭闘争を経験した世代ということになる。

 「荒れ場」を潜り抜けてきた先達がどんどん退職し、記憶が風化していくなかで、何とかして危機管理の実務的ノウハウを語り伝えていかなければならない。今回は、東峰十字路事件を題材に、最悪の状況に直面したときに何が支えになるかについてご説明しよう。

東峰十字路の惨劇

 筆者が警察庁で見習い勤務をしていたときの同僚で、神奈川県警から出向中のKさんが、深夜勤務の際に訥々と語ってくれたのが東峰十字路事件の経験談だった。事件が発生したのは、成田空港建設予定地内にある反対派の土地を収用するために、第二次行政代執行が行われた1971年9月16日のことである。

 神奈川県警の特別機動隊第2大隊(当時の1個大隊は、80~100人程度の中隊3個で構成)約240人は、午前4時に川崎を出発し、同6時30分頃に東峰十字路に到着した。新任警察官だったKさんもその1人だった。

 当時は今日のような輸送用バスでなく、幌付きのトラックに乗車していたため、身体がガチガチに凝ってしまったという。ようやく降車命令が出て、トラックの外でやれやれと背筋を伸ばしていると、いきなり火炎瓶による襲撃が始まった。道路の周囲には背の高い雑草が密集していたが、その中に数百人の反対派が待ち伏せしていたのである。

 火炎瓶というと、コーラ瓶にガソリンを詰めたものを思い浮かべるだろうが、この現場で使われたのは一升瓶であった。それが発火すると、十数mもの高さに火柱が噴き上がる。事件後の検証では、田舎道の交差点にすぎない東峰十字路のまわりに、一升瓶の破裂跡が数百カ所も発見されたという。

 Kさんは剣道の高段者であるうえに、Yシャツを着ていてもはっきり分かるほど筋骨隆々とした方で、筆者も武勇談を期待した。しかしKさんは、「周囲で火炎瓶が次々と破裂し、俺たちは逃げ惑うだけだった。自分は近くの沼に飛び込み、頭から水草を被るようにして隠れたので助かった」と静かに語った。

 奇襲を受けた特別機動隊は、あっという間に四分五裂してしまった。逃げ遅れた隊員たちを、鉄パイプや竹やり、角材などで武装した反対派が取り囲んでめった打ちにした。重傷を負って動けなくなった隊員は、ヘルメットをはぎ取られ、その頭部に鉄パイプが振り下ろされた。この事件で3人の警察官が殉職したが、いずれも死因は脳挫傷で、ご遺体の損傷は酸鼻を極めたものだった。その他にも数十人の警察官が重傷を負っている。

寄せ集め部隊の崩壊

 この事件の教訓は、次の3点となる。第1は、戦力を分散してはいけないことだ。問題の東峰十字路は、第二次行政代執行が行われた「主戦場」からかなり離れた場所である。そこに特別機動隊を配置したのは外周警戒が目的であったが、反対派が実質的に支配する地域に孤立した形となったために、格好の標的とされてしまった。

 第2の教訓は、準備不足で事に臨んではならないことだ。特別機動隊は、当日早朝に神奈川県を出発し、そのまま現場に乗り込んだため、周辺の状況をまったく把握していなかった。さらに、隊員たちが輸送用トラックから降車し、まだ隊列を整えていない段階、つまり最も脆弱なときに反対派の襲撃を受けてしまった。

 第3の教訓は、成田闘争のような荒れる現場に”弱い部隊”を投入すべきではなかったことだ。ただし、特別機動隊の個々の隊員が”弱い”という意味ではない。日頃訓練を重ねている常設の警備部機動隊や管区機動隊に比べて持久力は劣るかもしれないが、もともと警察にはKさんのように武術の有段者がそろっている。

 ”弱い”というのは、あくまで集団としての強さに関する評価である。常設の機動隊と違って、特別機動隊は刑事や交番勤務の若手警察官を集めて臨時編成したもので結束が弱かったため、奇襲攻撃を受けて部隊が崩壊してしまったのだ。

 この東峰十字路事件の反省を受けて、以後の成田現地闘争の警備計画では、外周警戒部隊をあまり遠方に配置しないこと、機動隊を前日までに成田に集結させて、準備万端の形で投入すること、特別機動隊は絶対に使わないことの3点が原則とされた。