写真1●ジュニパーネットワークスが発表した日本と世界のモバイル機器業務利用
写真1●ジュニパーネットワークスが発表した日本と世界のモバイル機器業務利用
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 「私物モバイルデバイスの業務利用は、日本が最も遅れている」という調査結果をジュニパーネットワークスが発表した。私物デバイスを業務に利用している比率は、世界全体で56%だが、日本では33%と約半分だという(関連記事)。

 半分なのは事実だとして、「遅れている」と言われると日本人としては面白くない。別になんでもかんでも欧米のあとを追いかけなくてもいいのではとも思う。日本のBYOD(私物デバイス活用)は本当に“遅れている”のだろうか。

多くの調査が示す日本の私物利用の少なさ

 そんなことを考えたきっかけはジュニパーの調査だが、ほかの調査でも日本と海外での違いは大きいという結果が出ている。

 ESETは米国の従業員の81%が何らかの私物デバイスを仕事に使用しているという調査結果を発表している(関連記事)。

 これに比べ、日本での私物利用の割合は少ない。ITproが実施した読者アンケートでは「私物デバイスを利用できる」は23.6%、「利用できない」は66.6%だった(関連記事)。

 日経コンピュータが1年前の2012年5月に行った調査でも、私物携帯電話(スマートフォン含む)の業務利用を会社が認めているという回答は19.6%。「認めていないが黙認している」が12.1%。「認めていない」が40.5%。「そもそもルールがないという」回答も20.5%あった(関連記事)。

 ガートナージャパンの調査でも、業務での利用を許可している企業は18.2%。業務での利用を全面的禁止している企業は28.3%。検討中の企業が15.6%。暗黙の了解もしくはわからないという企業は37.9%だった(関連記事)。

 こうしてみると、日本の私物デバイス利用は確かに欧米に比べ少ないと言える。

アジアの他国に比べても少ない

図1●ヴイエムウェアが調査したアジア太平洋地域のモバイル機器業務利用
図1●ヴイエムウェアが調査したアジア太平洋地域のモバイル機器業務利用
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 さらに、欧米だけでなく、アジアの他の国比べても日本の私物デバイス利用は少ないというデータもある。

 ヴイエムウェアは2012年3月に職場のIT環境に関する利用動向調査を発表したが、「個人所有の端末を仕事で使用している」(22%)という回答は、アジア太平洋地域の中で最も低いという。韓国は96%、中国は94%、タイは90%が私物端末を仕事で利用しており、日本は22%。日本は最も遅れているとする。

 ナショナリストではないつもりだが、「日本が遅れている」と言われると反発したくなる。しかし日本は競争力の低下が続き「失われた20年」と呼ばれる時代を過ごしてきた。もちろん私物デバイスを使用するかどうかで企業の競争力が決まるわけではないが、その背景にあるものについて考えるべきなのかもしれない。

 以前、「BYODに対する関心をもたらしたものは、『働き方』の変化ではないか」と書いた。ネットワークとモバイルデバイスの進化は、「ノマド」という言葉に象徴されるような、いつでもどこでも仕事が可能な環境をもたらした。その環境をフルに活用するかどうかで、仕事の生産性やスピードは当然変わってくる。と同時に、「業務を問題なく遂行すること」に対する「新しい方法や新しい目的を生み出すこと」の比重が高まってきたのではないかとも書いた。新しいデバイスやその上の新しいサービスに触れ、活用することで、新しい仕事の方法や新しいビジネスが生まれるきっかけになる(関連記事)。

そもそも何を管理すべきなのか

 アジアの私物利用比率が高い理由には、個人情報保護という概念が希薄だということはあるだろう。しかし、日本企業の管理は過剰になっていないだろうか。

 米VMwareではかつてスマートフォンを企業が支給していたが、端末を従業員名義に変更し、一定の通信費を支給する形でのBYODに制度変更した。これによって従業員は自由に端末を選べるようになった。企業にとっては「通信費用を変動費から固定費に変更でき予算管理が容易になったと同時に、端末を管理する必要がなくなった」(ヴイエムウェア システムズエンジニアリング本部 End User Computing シニア スペシャリスト 飯島徹氏)。どんな端末からアクセスされても問題ないようにシステムを設計しておけば、そもそも端末を管理する必要はない、というのが同社のポリシーだという。

 「日本はダメ」といった話はあまり書きたくない。日本人が自信を持てるような事実を紹介していきたい。しかし今回の話題については、米国やアジアをそのまま真似る必要はもちろんないが、学ぶべきことはいくつもあるように思える。