「○○さん、いらっしゃい。いつものお気に入りの部屋、空けてますよ」

 「○○さん、ビールが苦手でしたね。九州出身の○○さんに合うかと思って、今日は芋焼酎を用意しましたよ」

 とある旅館の、とある風景。女将はなじみ客に、気の利いた心配りを欠かさない。会話から客の好みを引き出したり、長年の経験から「この客はこのサービスを気に入るはず」と判断したりして、一人ひとり異なるおもてなしを提供する――。

 スマートフォンやSNS、ICカードといったITを駆使し、顧客に合ったサービスを届ける「パーソナライズサービス」の本質とは、「おもてなし」の精神にあるのではないか。日経コンピュータ3月29日号特集の取材を通じ、私はこう考えるようになった。

 ユーザーのことをよく知り、ユーザーに気の利いたサービスを素早く提供し、時にはユーザーから貴重なフィードバックを得るという発想は、冒頭に挙げた旅館のようなおもてなしと通じるところがある。

 スマートフォンやSNSの普及によって、企業がユーザーにサービスを提供できるチャンネルは格段に増えた結果、こうしたパーソナライズサービスを提供しやすくなった。メーカーは小売店を介さずに、ユーザーへ直接新製品を紹介できる。小売店なら、来店時以外にも、スマホアプリやFacebookページ、企業自身が運営するコミュニティサイトを通じて、利用者と常に接点を持つことができる。SNSなどに残された膨大なテキストや画像、GPSやカメラモジュールなど各種センサーが出力する情報は「ビッグデータ」と呼ばれ、ユーザーの嗜好分析など、これまでできなかった精緻な分析が可能になりつつある。

「気持ち悪い」という壁

 ユーザーの情報を収集・活用するパーソナライズサービスには、乗り越えるべき大きな壁が一つある。ユーザーに「行動を監視されているようで、気持ち悪い」と思われないようにすることだ。

 旅館や店舗のような対面型サービスとは異なり、ITを駆使したサービスでは、どのような情報が収集され、どのように活用されたかが、ユーザーからは見えづらい。企業にとっても、どのような行為がユーザーに「気持ち悪い」と思われるのか、判断が難しくなっている。

 例えばスマートフォンやSNSは、自宅の部屋と同じ「私的空間」に当たるのか、それとも公共交通機関や店舗のような「公共空間」なのか。Webサイトは、店舗と同じ一種の「公共空間」とみなされていたので、ユーザーがアクセスした履歴(=店舗の訪問履歴)を取られることへの心理的抵抗は小さい。

 では、スマートフォンのアプリの操作履歴だったらどうか。HTML5で記述したWebアプリならどうか。たとえ公共空間であっても、道端にあるカメラセンサーやマイクでユーザーの行動を追跡することは、どこまで許されるのか。

 ビッグデータは、誰の所有物が分からない、グレーゾーンの情報で溢れている。