東日本大震災から1年が経過した。2万人近い命が奪われ、いまなお避難生活を余儀なくされる方々は数多い。諸般の事情で被災地には何度も足を運んだ。震災直後の壮絶な光景は、おそらく生涯記憶から消えることはないだろう。

 今回の震災は、情報通信産業にも大きな課題を投げかけた。NTTの局舎が建物ごと津波に飲み込まれることなど、業界に従事する者として、今なお事態を受け入れられずにいる。

 さらに現地に足を運んだからこそ、マスメディアを介して伝えられる復旧ストーリーと被災地における現実の、ギャップの大きさに気づくことになった。例えば、通信事業者の努力にもかかわらず、被災地では4月半ばくらいまでケータイがまともに使えなかった。光ファイバー網の本格的な復旧も遅れに遅れ、一部の自治体では情報システムなどが正常に稼働せず、混乱は夏頃まで続いた。

「必要な情報が手に入らない」

 被災地での生活に触れて、情報流通そのものの不全も見えてきた。通信網をはじめとするインフラが復旧したにもかかわらず「必要な情報が被災地に行き渡らない」という問題が顕在化したのだ。

 例えば震災直後の3月中、被災地で最も必要とされたのは、近隣の地域の被災状況に関する情報である。しかしテレビから流れてくるのは、原発と節電の話題ばかりだった。

 また気仙沼と陸前高田のように歴史的にほぼ一体の関係にある隣接した自治体でも、前者が宮城県、後者が岩手県とたまたま行政区分が異なるというだけの理由で、相互で情報流通しない事態も見受けられた。テレビのネットワークが県域免許によって区切られているからだ。

 東京圏ではTwitterのおかげでその有効性が盛んに取りざたされたインターネットでさえ、避難所では邪魔者扱いされるケースがあったと聞く。伝統的な地縁の残る被災地では情報流通の制御はいわば共同体の権力構造そのもの。インターネットはその秩序を乱す存在であり、一部の有力者の反発を招いたというわけだ。そのため東京から支援物資として届けられたパソコンやネット回線の利用が、タブー視された避難所もあったという。

課題と解決策の宝庫

 もちろん課題が浮かび上がっただけでなく、情報流通が生かされた場面も多々ある。例えば震災直後からあちこちの被災地で立ち上がった臨時災害ラジオ局だ。仮設住宅での生活を強いられ、引きこもりがちな被災者には、貴重な地域の情報源として今でも重宝がられている。

 インターネットが活躍している場面もある。例えばアマゾンの「ほしい物リスト」を使った被災地支援のマッチングサービスがその一つ。特にケータイに慣れ親しんだ若い世代が中心となり、被災地と支援者を結ぶ自発的なネットワーキングの基盤として、インターネットを活用した。

 このように今回の大震災とその後の避難生活の実態は、情報通信分野に携わるすべての人々にとって具体的な課題と解決策の宝庫であると思う。そしてそれは同分野の新たな成長の糧でもあり、さらには産業輸出の戦略物資ともなり得る。

 たからこそ震災から1年が経過した今、東日本大震災の関心が薄れつつあることが何より気になっている。うがった見方かもしれないが、あえて過去のものにしようとしている風潮を感じるときもある。

 壊れたインフラを直し、義援金を出すなど金銭面で補助する。それは当然必要だ。しかし果たしてそれだけでよいのか。私たちにはまだ、東日本大震災から学ぶべきことが数多くあるのではないか。