1912年、北大西洋航路で豪華客船タイタニック号が沈没し、約1500人が死亡する惨事となった。この悲劇の原因の1つとして、乗客乗員の総数約2200人に対し、同船に積載されていた救命艇には1178人分の収容能力しかなかったことが挙げられる。その教訓を踏まえて、国際航海をする旅客船は、定員の125%に相当する救命艇(救命筏を含む)を配備することとされている。しかし、救命設備さえあれば大丈夫というわけでもない。

コスタ・コンコルディア号に呆れるだけでよいのか

 2012年1月13日、乗客乗員約4300人を乗せた客船コスタ・コンコルディア号がイタリア半島西側のティレニア海で座礁して転覆した。本稿の執筆時点での人的被害は、死者11人、負傷者60人、行方不明29人に達している。

 この事故では、乗員による避難誘導が不十分だったことが被害の拡大につながった。船長が乗客を置いて避難するという前代未聞のスキャンダルだけでなく、避難の決定やSOS信号の発出が遅延、乗客に対する説明が混乱、救命艇の下ろし方が分からないなど様々な不始末が重なった。

 そのため一部の乗客がパニック状態に陥り、我がちに救命艇に乗り込もうとする場面まで発生した。死者のほとんどは、救命艇を待ち切れずに海に飛び込んだり、混乱の中で海中に落下したりして、冷たい海水による低体温症で死亡したものとみられる。

 本事故の場合、座礁してから転覆するまでに50分程度の間隔があったこと、転覆後も船体の相当部分が水上に露出した状態であったこと、転覆位置がジリオ島近傍のため島民がすぐに救助に参加してくれたこと、そして何よりも天候が穏やかだったことなどの幸運な条件が重なったため、被害がこの程度で済んだのである。もしも沖合で沈没し、さらに強風や降雨などの悪条件が重なっていたら、タイタニック並みの大惨事となっていただろう。

 改めて申し上げるまでもないが、船舶関係規則では、乗員に対して救命設備に習熟することを義務づけている。コスタ・コンコルディア号でも2週間に1度の割合で訓練を実施していたとされるが、それでもこのありさまというわけだ。

下見先の進学塾の回答に嘆息

 この事故の報道を聞いた友人は、「まったくイタリア人のやることは」と呆れていたが、筆者は「日本だって同じだよ」と言い返した。つい先頃、ぞっとする経験をしたからだ。

 筆者は、長女を通わせる進学塾を選ぶために、渋谷駅周辺のA塾を訪問した。駅から徒歩3分と近いが、かなり古くて細長いビルの3階から6階に入居している。駅周辺というのは塾の立地として必須条件だが、それでも採算を取ろうとすれば、こうした賃料が安い物件を選ばざるを得ないのだろう。

 このビルの1、2階が飲食店、つまり火気を扱う店舗であるうえに、周辺はいわゆる雑居ビルばかりなので、何よりも火事が懸念される。そこで内部に入って調べてみると、教室は4階から6階に設けられているが、階段は1つだけだ。これでは、飲食店で火事が起きたら上層階は逃げ場を失ってしまう。

 他に避難経路はないかと探すと、窓際に緩降機が付いているのを見つけた。読者の皆さんもご存じだろうが、この緩降機は操作が面倒くさいうえに、1人つり下ろすにもかなり時間がかかる。授業中には子供が何十人といるし、つり下ろされる際におびえる子も出るだろうと考えると気になってしょうがない。

 そこでA塾の事務室に行って、「このビルには、避難階段が無いのですか」と受付の女子事務員に質問した。すると彼女は、「避難階段ですか…」と言葉に詰まり、助けを求めるように同僚を見やったが、そちらも当惑した表情で首を振るばかりだった。そこに上司らしき人物が出てきたが、驚いたことに彼も避難階段や緩降機について何も説明できなかった。ちなみに、その事務室には十人ばかりの講師が居合わせていたが、誰一人として私の質問に答えようとする者はいなかった。

 問題のビルのような特定防火対象物の場合、消防関係法令では、防火管理者を設置して消防計画を作成するとともに、消火・避難訓練を年2回実施しなければならないとされている。A塾でどの程度の訓練を行ったのかは知らないが、避難階段の有無さえ答えられないようでは話にならない。大勢の子供を預かる事業者でありながら、あまりのいい加減さを目の当たりにして、いかりや長介のように「駄目だこりゃ」と嘆息するしかなかった。

 救命設備というハードはカネさえあれば整備できるし、有無をチェックするのも簡単である。しかし、避難要領の習熟というソフト面は、外形だけでは分からないため、とかく疎かにされがちだ。まさに「仏作って魂入れず」である。コスタ・コンコルディア号の一件は決して他人事ではないと心に刻みつけるべきだろう。