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BCP/危機管理
樋口晴彦 危機管理の具体論

「安全神話」が無くならない理由

2012/01/19

 最近、「安全・安心」という表現をよく耳にするようになった。しかし、厳密に言えば、「安全」と「安心」は決してイコールではない。安全とは客観的・科学的な評価であるのに対し、もう一方の「安心」は主観的・感情的なイメージであるからだ。従って、安全でないのに安心している、あるいは安全なのに不安におびえているというケースが起きる。

安全と安心の違い

 前者の例として、「国産野菜だから安心だ」という消費者の思い込みが挙げられよう。ギョーザ事件など中国産食品のトラブルが相次ぎ発覚し、不安にかられた消費者が国産志向に走る気持ちはよく理解できる。だからといって、国産野菜が絶対に「安全」とも言い切れない。

 現実問題として、スーパーに並んでいるような見栄えの良い野菜を無農薬で栽培することは極めて難しい。そして、農薬を使用する以上は、何らかのヒューマンエラーによって、農薬が残留した野菜が市場に出回るリスクは避けられない。例えば、2007年には国産イチゴから基準値の10倍近い殺虫剤が検出される事件が発生している。

 日本では残留農薬に関して厳しい規制が設けられているが、コストの問題などから検査があまり励行されていないのが現状だ。それに対し、一部の外国産野菜に関しては、大規模農場経営による規模の利益を生かし、農薬の使用状況や出荷時検査を組織的に管理するシステムが整備されている。その意味では、国産対外国産という二元論的発想では、もはや整理がつかなくなっているのである。

かくして安全神話が生み出される

 後者の「安全なのに不安である」というケースは、新しい科学技術の事業化に関する話が多い。安全性について説明を受けても、その内容を理解できずに不安になるというわけだ。これに対して、「普通の人でも理解できるように、分かりやすく説明しないほうが悪い」という意見もあるだろう。しかし、そもそも安全性とは、大ざっぱに丸めて説明できるようなものではない。

 どのような科学技術も何らかのリスクを本来的に背負っており、それを様々な対策で除去したり、封じ込めたりしている。安全性についての説明とは、そうした対策がどのように機能しているかを述べることであり、話がどうしても面倒くさくなってしまう。それでも高校程度の理科の素養があれば、時間さえかければ十分に理解できるのだが、「難しい話は分からない」と最初から拒否反応を示されるとどうしようもない。

 さらに、大抵の方が「安全とは100%の安全を意味する」と誤解していることも問題だ。現実には、どれほど対策に配慮しようとも、リスクを文字通りゼロにするのは不可能である。そこで、リスクが許容可能な範囲に収まっていれば、「安全」と見なしている。つまり、安全とは絶対的なものではなく、あくまで相対的な概念というわけだ。

 例えば、ワクチンの予防接種を考えてみよう。各人の体質は千差万別であるうえに、体調や薬品の服用状況などの個別事情が影響して、何らかの副作用が発生する可能性は決してゼロではない。そこで、副作用の発生率がなるべく低いワクチンを開発するとともに、接種時には事前に問診し、体調が急変した場合の体制を整えるなどして、リスクを許容可能な範囲に封じ込めたことをもって「安全」としているわけだ。

 我々の普段の生活も、決してリスクと無縁ではない。炊事、喫煙、入浴、運転などの活動は様々なリスクを伴っているが、日常的なことなので特に意識していないだけである。しかし、科学技術に関するリスクは身近でないために、100%の安全でないという事実をことさら重大に受け止めてしまいがちだ。

 以上のように、相手がそもそも理解しようとする姿勢を持たなければ、いかに説明しても効果はあまり期待できない。また、非日常的なリスクに過敏になる件も、感覚的な問題だけに理性的な説明ではなかなか解消できない。

 そこで事業者は、「安心」を手っ取り早く獲得する手段として、有名大学の教授、地元有力者、政府の方針などの「権威」を利用しようとする。その権威を装飾するのが、膨大なデータ(その内容はともかく、山ほどのデータを並べてみせることがオーラとなる)と巨費を投じた宣伝である。かくして、「権威者が安全と言っているから安全に違いない」という安全神話が生み出されるのだ。

安全神話に自縄自縛となる事業者

 安全神話は、前述した「安全とは100%の安全を意味する」という世間の誤解をさらに強め、リスクに対する不感症をまん延させる。その一方で、安全神話の“信者”は、安全性の根拠を理解していないため、いざ何かの事件で安全神話が崩れたと感じると、全面否定の方向に走ってしまう。その結果、普段は権威の言いなりでリスクについて自ら考えようとせず、何事かあるとヒステリックに喚き立てる幼児的な国民性が形成されることになる。

 安全神話のもう1つの弊害は、安全神話を作り出した“神官”が自縄自縛になってしまうことだ。当該事業者は安全神話が虚構であって、どのようなリスクが残存しているかを承知している。さらに、事業開始後の技術的知見の蓄積によって、新たなリスクが発見されることもあるだろう。ところが、たくさんの信者たちの手前、そのようなリスクの存在を今さら認めることができない。その結果、新しく対策を実施することが難しくなってしまうのだ。

 筆者は、福島第1原発では、まさにこの問題が発生して、津波対策が見送られたものと推察している。一部活動家の虚説と違って、東北地方で過去に大津波が発生したという研究結果には科学的根拠があることを関係者も認識していたはずだ。しかし、大規模な津波用堤防の建設となると、コストの問題もさることながら、人目につくことは避けられない。「大津波の心配があるので堤防を作ります」と説明すれば、「これまで安全と言い続けてきたのは嘘だったのか」と追及される恐れがあるため、本格的な対策に着手できなかったのではないだろうか。

 こうした安全神話から脱却するには、事業者側が説明努力を重ねなければいけないことはもちろんである。しかし、「理解の壁」は事業者だけの問題ではない。一般市民の側でも、自らの安全に関わることを他人任せにしてはならないはずだ。

 前述したように、安全性についての説明は分かりにくいが、大抵の大人であれば、時間をかければ理解できる程度の内容である。事業者側の説明と反対者の指摘を比較して、自分なりに納得がいくまで調べようとする姿勢を持つべきだ。「信じていたのに裏切られた」という他人に寄りかかる姿勢では、いつまでも安全神話から抜け出すことはできない。「信じた自分が馬鹿だった」と反省することが、安全神話を克服する第一歩となるのである。


著者プロフィール

樋口晴彦(ひぐちはるひこ)
 東京大学経済学部卒。愛知県警察本部警備部長、四国管区警察局首席監察官のほか、外務省情報調査局、内閣官房内閣安全保障室に出向。1994年、フルブライト奨学生としてダートマス大学ビジネススクールでMBA(経営学修士)を取得。2012年、千葉商科大学で組織不祥事研究により博士(政策研究)を取得。警察大学校警察政策研究センター教授として危機管理分野を担当。危機管理システム研究学会常務理事。失敗学会理事。著書は『組織行動の「まずい!!」学─どうして失敗が繰り返されるのか』『「まずい!!」学─組織はこうしてウソをつく』『不祥事は財産だ プラスに転じる組織行動の基本則』(いずれも祥伝社)『企業不祥事はアリの穴から』(PHP研究所)など。

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