幕末を扱った大河ドラマでは、「ゲベール銃」や「ミニエー銃」という言葉がよく出てくる。ゲベールとはオランダ語で「小銃」であるが、日本では前装式滑腔銃の通称となっていた。「前装」とは、火薬と銃弾を銃口から入れ、槊杖(さくじょう)で突き固めて装填する方式である。そして「滑腔」とは、銃身内部にライフルリング(施条)がないという意味だ。

 もう1つのミニエー銃は前装式ライフル銃の通称であり、その代表的なものがエンフィールド(エンピール)銃である。ゲベール銃との違いは、銃身にライフルリングが刻み込まれていることだ。このライフルリングによって銃弾が旋転し、ジャイロ効果で弾道が安定するのである。

 が示すとおり、ミニエー銃は遠距離でも命中率が高く、有効射程(実戦で50%の命中率を期待できる射距離)は300ヤード(約274メートル)に達する。それに対して滑腔銃身のゲベール銃は、射距離が長くなると命中率が急激に低下し、有効射程は100ヤード(約91メートル)くらいしかない。

表●射距離と命中率
射距離 ゲベール銃 ミニエー銃
100ヤード 74.5% 94.5%
200ヤード 41.5% 80.0%
300ヤード 16.0% 55.0%

 実戦では、この射程の差が非常に重要である。ミニエー銃の射手は、敵のゲベール銃の射程外から一方的に撃ち込むことができるからだ。そのため、1850年代の西欧諸国では、ミニエー銃への更新が進み、大量のゲベール銃がお蔵入りとなった。

 ところがミニエー銃の時代は長く続かず、1860年代後半には、スナイドル銃などの後装式ライフル銃が登場した。「後装」とは、火薬と弾丸が一体化した弾薬筒を銃身の後尾から装填する方式である。

 これまでの前装銃は、装填に手間がかかるので、熟練兵士でも1分間に4発撃つのが限界である。しかも、装填の際に銃を立てないといけないので敵に狙撃される危険性も高かった。それに対して後装銃は、装填動作が簡単なので未熟な兵士でも前装銃の数倍のペースで射撃できるうえに、匍匐姿勢での装填も容易であった。そのため西欧諸国では、先を争うように後装式ライフル銃を導入したのである。

 かくして旧式化したミニエー銃が、さきほどのゲベール銃と共に、幕末の日本に大量に出回ることになった。先進国で要らなくなった中古兵器を武器商人が買い集め、発展途上国である日本に売りつけてボロ儲けをしたというわけだ。このあたりの構図は、今も昔も変わらない。

優秀な銃器を装備していた薩長軍

 戊辰戦争における薩摩藩・長州藩の強さは、銃器の差によるところが大きい。両藩ともいち早く軍事改革に着手してミニエー銃を主装備としたうえに、戦争後期には、より高性能のスナイドル銃への更新を進めていた。

 これに対して東北諸藩では、洋式装備への切り替えが遅れたことに加えて、軍事技術に疎い購入担当者が武器商人にだまされ、性能の低いゲベール銃を掴まされるケースが少なくなかったという。ちなみに、北越の戦いでは、僅か7万石の長岡藩の健闘がよく知られているが、河井継之助の指導により同藩兵がミニエー銃を装備していたことがその理由である。

 あと半年ほど時間の余裕があれば、他の藩も長岡藩と同様に洋式銃を調達し、薩長軍に匹敵する戦力を整備したことだろう。しかし新政府側では、鳥羽・伏見の戦勝後すぐに東征軍を派遣し、武器商人との取引場所である横浜を押さえた。さらに矢継ぎ早に東北地方に侵攻し、敵に立て直しの時間を与えなかった。

 その結果、薩長軍は優秀な兵装によって東北諸藩を短期間で圧倒した。まさに「先んずれば人を制す」である。戊辰戦争は我が国最大級の内戦だが、世界標準からすると、死傷者数や被害規模は非常に少なく、外国による紛争介入という最も懸念すべき事態も回避された。勝機を逃さず一気に攻め続けた維新の元勲たちの情勢判断を高く評価すべきだろう。

財政改革で積み上げた資金が倒幕の原動力に

 ところで、薩長両藩は、もともとは攘夷の急先鋒であったはずなのに、どうして諸藩に先駆けて洋式兵装の導入を成し遂げたのだろうか。その理由は、攘夷に失敗して実力の差を思い知らされたためである。

 薩摩藩は、文久2(1863)年の薩英戦争で、英国艦隊の鹿児島砲撃により軍事施設や城下町を破壊されたことを契機に、逆に英国との友好関係を構築するに至った。長州藩も、その翌年の下関戦争で英仏米蘭の四国連合艦隊に完敗した後は、海外からの先進技術の導入に積極的になった。

 その意味では、両藩とも攘夷戦の失敗経験を生かしたことになる。ただし、外国兵器の必要性をいかに痛感したとしても、先立つものがなければ購入できない。

 薩摩藩の場合は、1830年代には藩財政が破産状態であったが、調所笑左衛門が徹底した債務整理を行うとともに、砂糖の専売制を導入して税収を拡大した。また、長州藩でも、1840年代に村田清風による改革が行われ、交通の要所である下関で貿易事業を手がけて数百万両の剰余金を積み上げた。こうした潤沢な資金が武器購入や対朝廷の政治資金に充てられ、歴史を動かす原動力となったのである。

 拡大戦略を描こうとするのであれば、まずその前に組織内部をしっかり固めないといけない。内部の問題点を放置したままで、薔薇色の成長戦略に期待をかけるのは、現実逃避にすぎないのだ。