慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで、兵数的に優勢だった旧幕府軍は薩長軍に完敗した。その理由として、旧幕府軍の総大将である徳川慶喜が戦意を喪失したことや、薩長軍が新型小銃を装備していたことを思い浮かべる読者は少なくないだろうが、それは史実に反している。

 大阪城にいた徳川慶喜は、1月3日に戦端が開かれて以来、少なくとも翌4日までは特に動きを見せていない。しかし、5日になると前線から敗報が届くようになり、さらに6日には敗残部隊が続々と大阪城に退却してきたために、同日夜に軍勢を見捨てて脱出したのである。つまり、慶喜が戦意を喪失したせいで敗れたのではなく、鳥羽・伏見の戦いに敗北したから、慶喜が戦意を喪失したという構図である。

 また、薩長軍が新型(欧米列強では既に旧式だが)の前装式ライフル銃(いわゆるミニエー銃)を装備する一方で、旧幕府軍には、会津藩兵や新選組などの刀槍を主装備とする旧態依然の部隊が参加していたことは間違いない。しかし、旧幕府軍の主力である歩兵隊は前装式ライフル銃を装備し、一部の隊はさらに強力な後装式ライフル銃まで有していた。つまり、全体として見れば、薩長軍の兵装に決して劣るものではなかった。

 それではどうして旧幕府軍は大敗したのだろうか。その具体例として、鳥羽方面の戦闘経過を描写してみよう。

戦いの実相

 鳥羽街道の警備に従事していたのは、薩摩藩兵の6個小隊(兵力各120人)と若干の砲兵部隊などで、合わせて1000人弱である。これに対する旧幕府軍は、歩兵4個大隊(兵力各4~500人)や工兵部隊など約2000人、さらに見廻組(新選組と同様の治安機関)400人に桑名藩兵・松山藩兵も配属されていた。戦力的には、旧幕府側が3倍程度の優勢である。

 戦闘が開始されたのは、1月3日午後5時頃であった。薩摩藩兵の各小隊は、鳥羽街道に向かって凹字型に展開して待ち構えていた。そこに行軍隊形の密集縦隊で進撃してきた幕府歩兵は格好の標的となり、正面と両側面の三方から銃火を浴びて先鋒の1個大隊が敗走した。

 しかし、幕府歩兵隊の士気は依然として旺盛であり、次の大隊が前進を再開した。ところが今度も散開せずに横隊で進んだため、待ち受ける薩摩藩兵の火網に自ら飛び込む形となり、再び三方からの銃火を受けて壊滅した。かくして旧幕府軍は、ほとんど戦果を挙げられぬまま2個大隊を喪失したのである。

 翌4日、旧幕府軍は歩兵2個大隊の増援を受けて攻撃を再開した。この新着部隊は後装式ライフル銃を装備しており、火力の面では相当に優勢であった。ところが前回と同様に薩摩藩兵の十字砲火の中に突っ込んだため、結局は撃退されてしまった。

 その後、幕府歩兵の残存部隊は、下鳥羽の町に陣地を構築して抵抗した。しかし、側面に守兵を配置していなかったので、薩摩藩兵の一部が大きく迂回して側背に回り込んだ。包囲されそうになった旧幕府軍は下鳥羽を放棄し、淀方面へと脱出するに至った。

 頼みとしていた幕府歩兵隊が大損害を受けて後退し、さらに薩長軍に錦旗が翻って、自らが賊軍の立場となったことを知った旧幕府軍は激しく動揺した。そこに淀藩・津藩の裏切りが発生し、一気に戦線が崩壊したのである。