「こと医療においては、国民全体を対象とするような大規模システムを目指すべきではない」。

 日経コンピュータ2011年10月13日号の特集「ニッポンを賢く」の執筆のため私は、医療分野で使われるITの最新動向を取材して回った。その中で、複数の医者から同じような指摘を受けたのが印象に残っている。

 投薬歴から検査データ、電子カルテ情報といった個人の医療情報を、全国どの医療機関からでも参照できるようにするため、国民共通の医療ネットワークシステムを構築すべき、との意見がある。共通番号「マイナンバー」などを利用して個人と医療情報データベースをひもづけることで、無駄な検査や投薬が減り、医療を効率化できる。加えて、高価な検査装置や手術施設といった医療リソースを病院間で融通しやすくなる。現在でも、地域の拠点病院と診療所の間で医療情報を共有する「地域医療ネットワーク」と呼ばれる試みがあるが、この全国版を作るという発想だ。

 だが、実際に地域医療ネットワークにかかわる医者は、国民共通の医療ネットワークシステムという発想は「理想論ではあるが、現実にはうまくいかないだろう」と概して否定的だった。

 なぜか。理由は二つある。一つは、医療ネットワークがカバーする範囲が広すぎると、医者同士、医療機関同士の信頼関係を築きにくくなる点だ。互いに信頼する医者が連携することで、初めて互いの医療リソースを柔軟に融通できる「生きた医療ネットワーク」を築ける。逆に、こうした信頼関係の構築に失敗し、開店休業状態にある医療ネットワークも多いという。

 もう一つの理由は、地域ごとに医療へのニーズが千差万別であることだ。個人にとって医療情報は重要なプライバシー情報であるだけに、住民は医療情報の共有には二の足を踏みがちである。住民にとって、明確で分かりやすいメリットがない限り、医療ネットワークへの参加率は高まらない。逆にメリットが明らかであれば、多少の不安があっても使ってくれる。

ユーザーにとって分かりやすいニーズを見いだす

 例えば、岐阜大学が運用する救急医療支援システム「GEMITS」は、「医療機関から遠い地域でも、救急搬送から治療までの時間を短縮し、救命率を高めたい」という地元のニーズから生まれた。既往歴や投薬歴、アレルギーといった情報を記録したICカードを住民に所持してもらうことで、どの医療機関に搬送されても即座に医療情報を参照でき、迅速に治療を受けられる。既に岐阜県の住民8000人がカードを保有している。現在は7病院がシステムを導入済みだが、2012年度には14病院が参加する見込みという。

 「病院ごとに、複数の診察券を持つのは面倒。統一できないか」という都市部のニーズから生まれたのが、特定非営利活動法人(NPO法人)の日本サスティナブル・コミュニティ・センターなどが発行する京都府の地域共通診察券「すこやか安心カード」だ。このICカードを使えば、複数の医療機関に1枚のカードで診察を受けられる。既に100近い医療機関にシステムを導入済み。さらに2012年には、共通診察券のIDにひもづいた患者のアカウントを通じ、検査データや医療画像データ、処方箋といった情報を医療機関の間で共有できるようになる。

 これまで国民向けITサービスといえば、住民基本台帳システムにせよ、e-TAXシステムにせよ、「全国民向けサービスを一斉導入する」ことを重視する一方、肝心の利用者ニーズをおきざりにしていた感がある。まず、ユーザーにとって分かりやすいニーズを見いだすこと。当たり前のことではあるが、公的なITサービスの利用率を高めるうえで、欠かせない視点と感じた。