1996年2月10日、北海道後志管内の海岸沿いを走る国道229号線の豊浜トンネル内で重大事故が発生した。高さ70m×幅50m、重さ約2万7000トンという巨大な岩盤が崩落してトンネルを直撃、通行中の路線バスと乗用車(合わせて20人が乗車)を押しつぶしてしまったのだ。

 救出作業を進めるには、まず岩盤を取り除かないといけない。翌21日午後、発破作業が実施されたが、岩盤は少し下に沈んだだけであった。

 この発破作業は、岩盤の下部を破壊して、海側にすべり落とすという極めて難度の高いものであった。しかも、被災車両の位置に爆発の影響が及ばないように、火薬量を所要量の3分の1に減らさざるを得なかったという。その意味では、万が一の幸運に頼るような作業であって、失敗したのは無理もなかった。

 発破作業の模様をテレビで見守っていた筆者は、失敗に終わったことを確認すると、残念だが救出の見込みは無くなったと判断した。ところが、テレビのリポーターが、2回目の発破作業の準備が開始されたと語り始めたのである。筆者は慄然とした。

 崩落の状況から岩盤は非常に脆いと考えられるうえに、最初の発破の衝撃が相当なダメージを与えたはずである。本来であれば、当分は近寄ることさえ避けたほうがよい状態だ。その岩盤に取り付いて、爆薬を入れる穴をドリルでせん孔するなど自殺行為と言ってよい。

 もともと事故発生時の状況から見て、生存者のいる可能性は極めて小さかった(実際にも、事故後の検証では即死状態であったことが確認されている)。すぐに2回目の発破に取り掛かるのは、死者のために生者を犠牲にするようなものだ。

 一刻も早い救出をアピールする政治家や、それを当然と受け止めているマスコミは、筆者の目からすれば、古代ローマのコロシアムで剣闘士の決闘に喝采を送る群衆と変わりなかった。

ぎりぎりの局面では外野は口を慎め

 結局、2回目の発破も失敗し、さらに2度も薄氷を踏むような作業が続けられたが、作業者の方が2次被害に遭うことはなかった。これは単に幸運というだけである。あのようにリスクの高い作業を続けるべきではなかったと筆者は確信している。

 危機管理である以上、あえて挑戦しなければならないケースがあることは否定しない。例えば、2004年の新潟県中越地震の際に、2次災害の危険性が極めて高いがけ崩れの現場で、幼児を救出したハイパーレスキュー隊の活動は素晴らしい。

 筆者が申し上げたいのは、こうしたぎりぎりの局面では、周囲があれこれ言うべきではないということだ。自ら死地に出向くわけではなく、状況を判断するだけの専門知識もない人々が、第三者ゆえの無責任な熱情で「流れ」を作って、現場責任者を追い込むのは不見識きわまりない。

 そういう時は、ただじっと現場責任者の判断に委ねるべきである。もしも現場責任者が無理と判断したならば、それを受け入れないといけない。外野があれこれ批評を垂れるのは、すべてが終わってからにしてもらいたいものだ。

コンプライアンスと危機管理は必ずしも両立しない

 ここで、筆者の問題意識をもう1つ提起しておこう。1回目の発破作業は、21日午前中に行われる予定であった。実際にも8時30分頃には爆薬装填のためのせん孔作業が終了していたにもかかわらず、発破が実施されたのは16時25分である。

 まさに一刻を争う事態のはずなのに、どうしてこれほど遅延したのだろうか。その原因はコンプライアンス(法令順守)である。被害者の全家族に説明し、その同意を取り付けるのに時間がかかってしまったのだ。

 コンプライアンスの基本は「適正手続き」である。人命に関わる問題である以上、全家族から同意のハンコをもらうのは当然と言えなくもない。しかし、その手続きに費やした時間を考えると、「もしも生存者がいたら」と慨嘆せざるを得ない。

 ちなみに、この待ち時間のうちに、せっかくせん孔した爆破孔が荒れて(せん孔の内部が崩れて、爆薬を深部まで押し込めなくなる状況)しまったという。つまり、手続きに時間をかけたことは、発破作業が失敗した一因にもなっているのだ。

 コンプライアンスは重要であるが、煩雑で時間がかかることは否めない。一刻を争う危機管理の場では、コンプライアンスの担保が人命救出に逆行する場合がある。つまり、机上の空論とは違って、実務では二兎を追えないケースがあるということだ。

 そのときにどちらの「兎」を追うのか、危機管理の担当者は覚悟を固めておく必要があるだろう。