戦国末期の武将、蒲生氏郷(うじさと)は、近江日野3万石の領主であったが、豊臣秀吉の配下で活躍を重ね、会津若松92万石の大名にまで栄進した。この所領は、当時の豊臣政権下において徳川家・毛利家に次ぐ第3位の石高である。しかし残念なことに、氏郷は40歳の若さで病没し、蒲生家もその後改易されたため、今日では印象の薄い存在となっている。

 この悲運の武将については、次のエピソードが残っている。氏郷が家来を召し抱える際に、「我が旗本には、銀の鯰(なまず)尾の兜をかぶって先頭に立つ武者がいる。その男に負けじと頑張るのだぞ」と声を掛けた。その新参者がいざ戦場に臨むと、鯰尾の兜を付けた人物は氏郷その人であったという。

 まさに陣頭指揮そのものであり、これぞリーダーシップの手本と感じた読者も少なくないだろう。しかし、同時代の戦国大名の中で、軍団の先頭に躍り出て戦った者はほとんどいない。桶狭間合戦における今川義元のように、大名が討死したら全軍が崩壊してしまう以上、自らの立場をわきまえずに陣頭指揮にこだわるのは「匹夫の勇」にすぎないからだ。

 名将言行録によると、豊臣秀吉が蒲生氏郷を評して、「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、勝利するのは織田軍である。蒲生側が織田兵4千の首を取っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれているからだ」と語ったという。

上級指揮官は陣頭指揮をしなくてよい

 筆者としても、陣頭指揮の心理的効果が非常に大きいことを認めるのにやぶさかではない。しかし、そのように体を張るリーダーシップが許されるのは、中隊長クラス(部下の人数が100~200人)までだ。それよりも上級の指揮官は、後方から指揮を執るのが基本である。要するに、個人の武勇ではなく、頭脳で勝負するのが上級指揮官の役割なのだ。

 民間企業の危機管理についても同様のことが当てはまる。ところが日本では、「危急の時にはトップが陣頭指揮を取らないといけない」という精神論が根強いため、トップが率先垂範を続けて消耗し、肝心の判断力を鈍らせてしまうケースが少なくないようだ。

 その一例として、2000年の雪印乳業集団食中毒事件における失言問題が挙げられる。雪印乳業の社長に上り詰めるほどの人物であれば、「私は寝ていないんだよ」との発言がどのように受け取られるかを認識できないはずがない。それでもつい口走ってしまったのは、文字通り連日の徹夜とマスコミ対応によって神経をすり減らし、冷静な思考ができなくなっていたからだ。また、2011年9月にJR北海道の社長が自殺した一件も、特急列車「スーパーおおぞら14号」の脱線炎上事故の処理を巡って、ストレスと疲労が蓄積したことが原因と推察されている。

 もともと日本企業の経営者は、欧米と比較して年齢が高く、60~70代がざらである。そうした高齢の経営者が、神経が張り詰めるような緊張の中で、何日も体力が続くわけがない。長丁場の危機管理を乗り切るには、陣頭指揮にこだわらずに、適宜休息を取って思考をクリアに保つのも仕事のうちと割り切ることだ。

 そのような姿勢に対して、他者が訳知り顔でそしることもあるだろう。しかし、言いたい奴には言わせておけばよい。判断ミスによって危機管理に失敗することを思い浮かべれば、評判を落とすことなど大した話ではないはずだ。