筆者は、これまでの職務経歴では、危機管理の仕事に比較的長くたずさわってきた。どういうわけなのか、そうしたポジションに就いた時に限って、とんでもない事件が起きたものだ。

 例えば、まだ新米の時に出くわしたのが日航機の御巣鷹山墜落事故であった。外務省に出向した時には湾岸戦争が発生し、内閣安全保障室に出向した時には、ペルー大使公邸人質事件やナホトカ号重油流失事故の担当となった。そして愛知県警に勤務した時には、東海大水害に直面した。その意味では、まことに運の悪い男であるが、おかげで危機管理の実務経験はそれなりに積んだものと自負している。

 このコラムでは、そうした危機管理・リスク管理に関する知見を読者の皆さんにご説明することにしよう。あらかじめお断りしておくが、決して体系的に整理したものではなく、具体的な事例を題材としたノウハウやものの考え方の紹介が中心である。対象とする読者は、世間に流布している危機管理論に飽き足らない方、さらにいえばそうしたきれいごとに胡散臭さを感じている方であり、それ以外の方はどうか読み飛ばしていただきたい。

斑目委員長の「ゼロではない」発言

 今回は、東京電力の福島第1原発事故に関する斑目春樹・原子力安全委員会委員長の「ゼロではない」発言問題を題材として、危機管理における「立場」というものを考えてみよう。

 報道によると、震災発生翌日の3月12日、官邸で1号機への海水注入を検討している段階で、斑目委員長が再臨界の危険性を示唆したことが、その後の迷走につながったとされている。政府の危機管理の是非については、これから調査委員会による検証が行われるので、本コラムでは論考を差し控える。ここで注目していただきたいのは、斑目氏の認識の珍妙さである。

 斑目氏自身の説明によると、当時の発言は「再臨界の可能性はゼロではない」であり、「事実上ゼロだという意味」ということだ。さらに、「学者は、可能性が全くない時以外は『ゼロではない』という表現をよく使う」と弁解を重ねている。筆者は、この説明で自己正当化したつもりになっている斑目氏の態度に呆れてしまった。

 論理的に考えれば、再臨界が発生する可能性は限りなくゼロに近いが、原子炉内部の状態が不明である以上、ゼロと言い切ることはできない。その意味では、「再臨界の可能性はゼロではない」という斑目発言は科学的に正しい。また、科学者の間で「ゼロではない」という表現をよく使うことも事実だろう。

 問題は、発言者の「立場」である。もしも斑目氏が一介の科学者としての立場で同じ事を述べたのであれば何の問題もない。しかし、斑目氏は原子力安全委員会の委員長であった。

科学的に正しくても役割にふさわしくない

 この原子力安全委員会は、「委員会」という名称は付いているが、法律で設置された行政機関である。その所掌事務は「原子力の安全確保に関する規制について企画し、審議し、決定すること」と明記されている。つまり、斑目氏は一介の科学者として専門知識を披露すればよいという気楽な立場ではなく、行政機関の長として原発事故に対する措置を企画し、総理に進言する役職に従事していたのだ。

 その立場にある斑目氏は、自らの発言について「科学的には間違っていないから大丈夫」と甘えることは許されない。「事実上ゼロだという意味」であれば、それを他の出席者に確実に伝達して、誤解が生じないように配慮する義務があった。

 普通に考えれば、「再臨界の可能性はゼロではない」と「再臨界の可能性は事実上ゼロである」では、聞き手の受け止め方が大きく違うのは当然である。その程度のことさえ認識していなかったのであれば、斑目氏はただの学者バカであり、とても行政機関の長が務まる器ではなかったということだ。

 ただし、これまでの斑目氏の経歴や国会における対応ぶりを見る限り、とても学者バカには見えず、むしろ如才ない人物といった印象が強い。それでは、どうして斑目氏は「再臨界の可能性はゼロではない」という回りくどい表現をあえて用いたのだろうか。この件については、班目氏の内心の問題なので推測するしかないが、筆者の経験では、危機管理の渦中でこうした発言を聞くことは決して珍しくない。

決断から逃避する担当者は向かない

 危機管理の場では、巧緻よりも拙速が重んじられることはよくご存じと思うが、混乱した状況下で拙速に判断を下せば、結果的に失敗するケースも出てくるのは当然だ。少し言い換えれば、たとえ失敗するリスクがあったとしても、何も決断せずに手を拱いているよりもましという割り切りである。

 しかし、危機管理の担当者であっても、とかく失敗を恐れる人はいるものだ。失敗しないようにするには、決断しないことが一番である。そのためにできるだけ発言を避け、やむなく発言する場合でも、イエスともノーともとれるレトリックを駆使して、誰か他の人が決断するまで逃げ回る。そうすれば、失敗した場合には「自分は警鐘を鳴らした」と弁解し、成功した場合には栄誉の分け前にあずかれるというわけだ。

 それでは、担当者が決断から逃避するのを防ぐにはどうしたらよいだろうか。残念ながら、筆者の経験では、教育や研修でどうにかなるものではない。世の中には、重大な決断を下せる人と、それから逃避しようとする人の2種類がいるということだ。

 そうなると、危機管理の担当者に重大な決断を下せる人を充てるしかない。あとは経営者の人物鑑定眼しだいである。ちなみに、福島第1原発事故の関係者の顔ぶれを見れば、どういうタイプが危機管理に向いていないかおのずと浮かび上がってくるはずだ。