「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」、と内田樹氏が『日本辺境論』で書いている。本人も冒頭で書いているように、日本人の思考や行動を「辺境性」によって説明する考え方はこれまでもあり、特に新味があるわけではない。それでも、筆者が本書の中の指摘で面白いと思ったのは、「辺境人」の特徴の一つが中心部で創造された知見を「学ぶ」術に長けている、というくだりである。

 日本の製造業にあてはめてみると、戦後に競争力を上げることができたのは、欧米のリニアモデルをキャッチアップできたからだと見られているが(以前のコラム)、その原型は「辺境性」にあるのかもしれない。つまり、外に何か手本があってそこに「学ぶ」ときには、「辺境性」がうまく機能するということである。

 この部分を理解するためには、内田氏が「学ぶ」ということをどう見ているのかを知る必要がある。人間はなぜ学ぼうとするのか。内田氏は、「学ぶ意欲(インセンティブ)」は、「これを勉強すると、こういう『いいこと』があるという報酬の約束によってかたちづくられるものではない」と見る。確かに、まだ学んでいないのだから、学ぶことによって何が得られるのかは分からない。分からないながらも学ぼうとするのはなぜなのか。「これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まる」という(p.196)。

 筆者の理解では、とにかく外に自分の知らない知見に遭遇したときに、それがいちいちどのような意味があって、他と比べてどのような位置づけにあるのか考えてから学んだのでは、遅いし、学習の効率が悪いということである。または、学ぶことによって短期的な「報酬」が得られそうにないからやる気をなくすのではなく、学ぶことによる長期的な「利益」を無意識的に想定しているということだろう。内田氏はこう書く(p.141)。

「外来の知見に対したとき、私たちは適否の判断を一時的に留保することができる。極端な言い方をすれば、一時的に愚鈍になることができる。それは一時的に愚鈍になることによって知性のパフォーマンスを上げることができるということを私たちが(暗黙知的に)知っているからです。自らをあえて『愚』として、外来の知見に無防備に身を拡げることの方が多くの利益をもたらすことをおそらく列島人の祖先は歴史的経験から習得したからです」。

 辺境人としての歴史的経験といってもたかだか1500年前からということなので、生物学的にDNAのレベルで組み込まれているわけではない。日本人の考え方や文化に「辺境性」はどの程度の強さで影響を与え、それは変わるものなのか、変えられるものなのかが気になるところである。