ガラケーの未来は暗い
ただ一つ言えそうなのは、ガラケーの未来は暗いことだ。もちろん、すぐなくなるわけではないし、ガラケーでないと利用できない機能はたくさんある。先に挙げた「身体性」が逆に働けば、使い続ける人は少なくないことも想像がつく。
一方、既にWebにアクセスする自由を、機能としてはではなく、感触として手に入れてしまった筆者の手元では、ガラケーの存在価値は日に日に下がっている。「電池が持たないから魅力に欠ける」と思っていたHT-03Aが、今では欲しくてしかたがない。今も所有するガラケーは電池切れに気がつかないことが2度ほどあった。インターネットと、その恩恵が多くの人のものになった今、この流れが逆に向くとは考えにくい。少なくとも自分は、そう信じることができる。
さて、メインフレーム時代を知る古い同僚は「いやそんなの4度目か5度目だから」なんてことを言う。筆者がコンピュータの世界を知ったのは今から25年ほど前、その時代のことはよく知らないし、うまく書けない。
古い同僚よりもさらに年上である筆者の親はパソコンやマイコンが好きであった。親にパソコンを買ってもらって育った筆者は36歳。そろそろ親にパソコンを買ってお礼をしたい。ちょうど親にガラケーを渡しているので、今年のうちにスマートフォンへリプレースしてあげようと考えている。2010年の、真のパソコンを。