身体が自由なWebアクセスを備える感覚

 「ガラケー」という言葉がある。日本独自の携帯電話の進化を、ガラパゴスにおける生物の進化になぞらえ、日本でしか利用できない様々な機能を備えた携帯電話を「ガラパゴス・ケータイ」と呼ぶ。略してガラケーだ。

 とても役立って、便利だったガラケーが筆者は好きだった。でも、iPhoneが自由に素早くWebにアクセスできることに気づいてから、急にかすんで見えるようになった。購入の翌日、所有していたガラケー(SO906i)の有償サービスをすべて解約した。「ガラケーだけで利用できるちょっと使いにくいけれど有用な機能」よりも、iPhoneの広い画面で得られる「自由なWebアクセス」の方がずっと大事で、金銭的にも価値があると自然に感じた。

 購入から2週間、筆者はiPhoneをほとんど体の一部のように感じるようになった。筆者よりずっと前にiPhoneを買ったある同僚は、「iPhoneがないと戦闘力が半分以下」と語っていた。彼が何と戦い、iPhoneの力で何に勝利するのかよく分からなかったが、iPhoneが体の一部になった今ではその気持ちが分かる。iPhoneの電池が切れると、とても悲しい。不意に手から滑り落として、地面にぶつかったときは“痛い!”と思う。

 この感覚を表現するいい言葉はないか…と考えているとき、「身体性」という言葉が浮かんだ。近いのは、幼いころ、補助輪なしの自転車に乗れたときに、行動が自由になることを、ハンドルを握る手のひらから感じた、あの感覚である。これは失いたくない。他人に奪われるのは嫌だ。

「真のパーソナル・コンピュータ」

 あるiPhoneアプリの開発者と打ち合わせをしていたときのことである。先のような「身体性」の話をすると、彼は「真のパーソナルコンピュータ」という話をしてくれた。とてもよく似た話を2人の開発者から同じ時期に聞いたので、まとめて要約する。「そもそも『パソコン』というコンセプトは、個人で使うもの。それを目指して作ってきたけど、高価なので部署で共有されたり、管理が大変だったり、資産として会社に管理されたり。結局うまくいかなかった」。

 話は続く。「携帯電話はそもそもコンピュータで、誰もが自分用のものを自分で一つ持つ文化として世の中に入った。情報にアクセスしたり、コミュニケーションしたりするときの個人的な起点になる。ガラケーでもいいけど、制約が多すぎる。自由にアクセスできる感触さえあれば、真のパーソナルコンピュータとして、あっという間に広まる」。

 だとしたら、NDAとAppleの審査に守られたiPhoneのアプリケーション開発は厳しいな、Androidはまだアプリケーションが少ないけれど、ソフトウエアは開かれた開発環境で、ハードウエアは複数のベンダーによって、それぞれ自然な競争が起きるとしたら、だいぶ有利だな…そんなことを考えていて気づいたのが、1994年ごろ、筆者がパソコンへ抱いていた思いとよく似ていることだったのだ。