欧州を起源とする近代技術は、道具→機械→システムという流れで発展してきたが、日本はその都度、機械→道具、システム→機械という逆の流れを作り出して近代技術にうまくキャッチアップした---。『ものつくり敗戦』でこんな「歴史観」が披露されている。

 18世紀に英国で起きた産業革命では、それまで人間が道具を使って綿花を紡いでいたのを紡績機械に置き換えた。これをきっかけにしてさまざまな道具が機械に取って代わられたが、「道具」がなくなったわけではなかった。「機械は道具的な部分を内部に取り込みながら発展するし、機械を使いやすいものにしたり、機械ではどうしても手に負えないものを作るには道具は不可欠である」(本書p.108)。

 それは、その後急速に発展した科学と技術が結びついた「科学技術」(第二の科学革命)が生んだ高度な機械でも本質は変わらなかった。日本が西欧の科学技術にキャッチアップできたのは、近代的な機械の中に「道具」の要素が残っていたからだ。そこに、日本が伝統的に持っていた道具を使いこなす技能が生きたのである。木村氏はそれを西欧が進めていたメガトレンドとは逆の流れを起こしたと見る。

 日本の製造業は、「大きな流れ」を主に担当する大企業と「逆の小さな流れ」を主に担当する中小企業という二重構造をつくって、いわば二つの流れをうまくコントロールしてきたと言えるかもしれない。

 19世紀から20世紀にかけて、科学と技術が結びついた「第二の科学革命」は大きく花開く。米Ford社のT型モデルを皮切りに、大量生産と大量消費をもたらし、製造装置は大きく、複雑になり、高エネルギー型になっていった。それに伴い、製造プロセスでは予測したり制御できないさまざまな現象が出てきて、そうした「不確かさ」をいかに克服するかが課題になってきた。

 「複雑さ」や「不確かさ」を克服するために、「機械」を「システム」に変える「第三の科学革命」が1930年代ごろから起きたと著者の木村英紀氏は見る。第一、第二の科学革命が自然を対象にしていたのに対し、「第三の科学革命」は技術が生んだ人工物を対象とする。具体的な成果としては、制御工学やオペレーションズ・リサーチ、ネットワークの理論、そして究極的にはサイバネティックスを挙げる。

 そしてこの「第三の科学革命」が起きた後でも、日本は産業革命時に「機械」から「道具」に逆流の道を作ったように、「システム」から「機械」へという逆の流れをつくった。機械化されても「道具」は残ったように、システム化されても「機械」は残る。その一つが「機械」をベースにした製造技術であり、日本の製造業は製造技術に磨きをかけて80年代にかけて躍進した。日本は欧米が進む道をキャッチアップする中で、欧米が置き忘れたところを「逆進」によってカバーして、むしろ本家をしのいできた、ということだろう。

 しかし、この「逆進モデル」が通用しにくくなったところに、今の日本の製造業が置かれている難しさがある。「第三の科学革命」がさらに進展し、システムがソフトウエアによって主導されるにつれ、システムから機械への逆進の道は細くなりつつあるという。「理由のひとつは、ソフトウエアによって機械の制御が速く正確に巧妙になり、熟練した技能に置き換わりつつあるからであり、もうひとつはソフトウエアが完全な普遍性をもっているからである」(本書p.188)と著者の木村氏は説く。

 木村氏はまた、日本がこうした「逆進」する理由として、江戸時代の鎖国の間に労働集約型の生産革命(勤勉革命)が起こった点に起源を求め、「匠の技」を重く見る技術的伝統が日本にはあるからだとする。こうした伝統が「ものつくり神話」や「匠の呪縛」を生み、それがシステム思考を阻害して競争力を下げている今の現状を、戦前の日本軍に重ね合わせる。例えば、歩兵銃を熟練工が1挺ずつ部品を調整してつくっていため部品の互換性が同一工場の製品にしかなく、熟練工が不足した戦争末期には製造することすらおぼつかなくなった。さらにこうして熟練工が丹精込めて作った「もの」を、使う人間よりも尊重するという倒錯が生まれ、破損したり、紛失したりすると厳しい制裁を受けるなど「まれに見る人命軽視の風潮が支配した」という。

 本書の結論は、「逆進」への道が狭まった今、「技」や「匠」への愛着を断ち切り、「理論」、「システム」、「ソフトウエア」という「3大苦手科目」を克服するために、「知の統合」や「コトつくり」を政策目標に掲げ、大学の教育プログラムなども第三の科学革命に対応したものに変えていかなければならない、というものだ。

 それはそれで正論だと思うが、筆者がひとつ思ったのは、日本が実践してきた「逆進」には、現場のモチベーションを上げる意味もあったのではないか、ということだ。産業革命から始まった「道具」から「機械」への大きな流れは、「機械に使われる人間」という負の側面ももたらした。そこに逆の小さな流れをつくることで、もう一度ものづくりの喜びを取り戻そうとした動きでもあったとも思うのである。

 例えば、「システム」化の一つの動きともいえるプラットフォームベースの設計でも、標準品を使って設計することが基本である一方で、日本では新規図面を起こす機運も強い。これまでの文脈から言うと、一部でも新規図面を起こすという「逆進」が、モチベーションアップと製品差別化という相乗効果をもたらしたところに日本の強さがあった。「逆進」の道が狭くなっているとしたら、その狭くなったところでなんとか生きていくか、別のところにモチベーションを探さなければならないということかもしれない。

 フィンランドのNokia社では、さまざまな標準品を組み合わせて設計する力のことを、「オーケストレーション力」と呼んでいるそうだ。オーケストラの指揮者のように,各楽器をまとめ上げて,雄大な音楽を作り上げるという意味を込めている。指揮者のような能力を持ち,それを発揮することをモチベーションとする社内文化をノキアは作り出している(以前のコラム)。

 ということは、「理論」、「システム」、「ソフトウエア」が「苦手科目」だと思っているうちは、まだまだなのかもしれない。「好きこそ物の上手なれ」。好きになる環境をいかに整えるということだろうか…。

この記事は「Tech-On!」で連載中の『藤堂安人のイノベーション雑記帳 』から転載したものです。バックナンバーはこちらからご覧いただけます。