「ネットにとって良いことはグーグルにとっても良いことだ」。グーグルの関係者は、よくこんな言い回しをする。彼らがどこまで意識しているか知らないが、こういう言い回しを聞くと、私はかつて巨大企業のトップが言い放った言葉を思い出す。「GMにとって良いことは、アメリカにとっても良いことだ」。この似て非なる2つのフレーズについて、あれこれ考えると面白い。

 今や昇る太陽と西に傾く月くらい勢いに差がある両社だが、この2つのフレーズにも2つの巨大企業の根本的なビジネス発想の違いが見受けられる。「GMにとって良いことは、アメリカにとっても良いことだ」の抽象度を上げれば「私にとって良いことは、公(おおやけ)にとっても良いことだ」。一方、「ネットにとって良いことはグーグルにとっても良いことだ」は「公にとって良いことは、私にとっても良いことだ」となる。

 まあイメージ的には、傲慢な巨大企業と謙虚な巨大企業といったところか。グーグルのことを謙虚な巨大企業なんて言うとドン引きだが、実際にグーグルは謙虚さの演出に心を砕いている。広告モデルの事業である以上、人気商売だから当然だ。それに、消費者のネット滞在時間が増えるという、ネットにとって良いことが進展すればするほど、グーグルは儲かるから、それを促す“無償奉仕”に熱心になる。

 ところで、「私にとって良いことは、公にとっても良いことだ」という発想を傲慢と書いたが、こうした発想は以前なら、どこの巨大企業でも当然持っていた。だいぶスケールが小さくなるが、企業城下町を形成していた日本の鉄鋼や電機などの巨大企業にとっても、普通の発想だった。「我が社にとって良いことは、地元の皆さん、自治体にとっても良いことだ」。

 1つの巨大企業が栄えると、協力会社も潤い、多数の関連ビジネスが誕生する。多くの雇用が生まれ、自治体の財政も豊かになる。巨大企業が作り出した秩序の中で、皆がハッピーになる。まさに城下町、お殿様型のビジネスモデルだ。だからGMだって「我が社の繁栄が国益」と言ったって何の不思議はない。

 IT業界で言えば、かつてのIBMも間違いなくGMと同じ発想を持っていた。「IBMにとって良いことは、アメリカにとっても良いことだ」といった具合に。マイクロソフトの場合、さすがにそうは言わないだろうが、やはり「私にとって良いことは、公(=IT全体)にとっても良いことだ」という発想がある。マイクロソフトが巨大化すればするほど、マイクロソフトが創り出したエコシステムも栄える、というわけだ。

 こうしたお殿様型の巨大企業は、特徴的なことが1つある。自らに挑戦する存在を決して許さないということだ。だから、日本のメインフレーマがIBMに挑戦するという「IBMにとって悪いこと」が起こった時、アメリカは日本を締め上げた。マイクロソフトはネットスケープの挑戦を受けた時、全体力を傾けてネットスケープを木っ端微塵にした。

 では、「公にとって良いことは、私にとっても良いことだ」と語るグーグルはどうか。こういう発想は、商人なかでも豪商の発想によく似ている。日本のかつての豪商は、自らが店舗を構える街が発展するように私財を投じた。そして、街に集客が進めば他の商店も儲かるが、最も良い場所に立地する自身の店舗が最も儲かる。まさに「損して得取れ」の発想である。

 つまり、GMなど既存の巨大企業が殿様型のビジネスモデルであるのに対して、グーグルは豪商型のビジネスモデルということになる。こんな雑駁な分析で大げさな感想を述べるのも恐縮だが、今回のパラダイムシフトはその意味でかなり根源的である。グーグル追撃なんぞ夢のまた夢の日本のIT企業も、そのあたりを少し考えてみたほうがよいかもしれない。