今回の主張は,多くの読者からご批判を頂く可能性が大きいと思う。しかし,筆者にとっては永年考え続けてきたテーマであり,IT社会を存続させるためにも避けて通ることのできない課題である。轟々(ごうごう)たるご批判を覚悟の上で取り上げる。

IT依存症の克服には自然への回帰が有効

 効率,便利,楽しみ,快適さなどなど,今後の技術発展を考えると,ITが社会へもたらす恩恵がさらに拡大することは間違いないだろう。

 しかし反面,ITが社会に負の影響を与えていることも見逃せない。その中には,致命的なものもある。インターネット利用犯罪,自殺サイト,裏サイトによる誹謗中傷,インターネット依存症,パソコン・ケータイによる漢字力・読解力・文章力の衰退(ケータイ小説の効用は,もう少し見極めたいが,余り期待できそうもない)。それに,IT依存過多による思考力や創造力の喪失,モラルの低下,ある意味での日本文化の退廃などが挙げられる。これらについてはマスコミなどで一般的に議論されているので,ここでの詳述は割愛する。

 問題は,これらに対してどのような手を打つべきかである。対症療法的な対策から考えてみよう。

 例えば,ITへの依存過多である。これについては,専門の治療機関が海外には見られるが,わが国にはほとんどない。専門医療機関の整備が求められる。家庭や学校で対応するとすれば,IT依存症に悩む彼らを生活の中に引き入れて,手作りの体験をさせるという方法もある。できれば,地域も関わって欲しい。それなりの施設も必要だろう。

 さらに直接的療法の一つとして,幼い頃からのITリテラシー教育も必要だ。学校教育の中に単純なパソコン教育を安易に組み込むのでなく,ITによる影響や客観的評価の仕方などを教える必要がある。そのための施設・設備・要員・時間が必要になるだろう。

 もちろん,基本的には根本療法が施されなければならない。

 ITのバーチャルな世界へ傾倒すると,人間は,リアルな世界,人間を含むもろもろの生物を包み込む自然という生命体から疎遠になる。常にリアルな世界に立ち戻る,すなわち自然に回帰する機会を窺(うかが)う心構えが,ともすればITのバーチャルな世界で迷走しがちな私たちに,正常な思考と判断を促す。

 ニホンザルの研究で知られる河合雅雄京都大学名誉教授は,自然の重要性を「森林(筆者注:自然)は…(略)…,これから子供を育てる場として,また高度な文明社会に疲れた人間が,新鮮な気分を回復する憩いの場として,更に,さまざまな知識を提供し美意識を解き放つ場である文化資源として,生活の中に取り入れて行きたい」(「子どもと自然」岩波新書)とする。また,教育社会学者である門脇厚司筑波大学名誉教授は,「顔を合わせないコミュニケーションだけにのめりこむと,子供たちの社会性が育たない。他人に関心のない個人で作る社会は砂で団子を作るように壊れやすい」(日本経済新聞1999年4月27日付)と,人間と人間の接触の重要性を主張する。

 各種のアンケート調査は,「自然体験」「生活体験」「お手伝い」の豊富な子供ほど,道徳観・正義感が身についている傾向が強いことを示している。私たちはITの負の影響を克服するために,「自然に回帰」し,「人間との接触」の機会を増やさなければならない。その方法は二つある。一つは自然を体の中に刷り込むこと,もう一つは「自然回帰」,「人間尊重」を学校教育などに義務として取り込むことである。

 前出の河合雅雄氏は,「論理的思考に基づいて自然と接するのではなく,まず,自然の中に包まれ,体の中にしみこむごとく自然を感じ取ることが大切なのだ。(中略)幼児期から自然に接し,祖父母や両親が日頃自然について語っておれば,自然に対する親しみの気持ちがいつの間にか心に刷り込まれ,生涯持続するだろう」(同著)とする。

 「体の中にしみこませる」には,1カ月位の長期間の自然保護活動,福祉貢献活動などを,小・中・高校の正課として学校教育に取り入れる必要がある。場合によっては,20才前後の男女に,徴兵制度のごとく自然保護・福祉貢献の活動を義務化することさえ必要であろう。ここで福祉貢献活動が出てくるのは,社会的弱者との接触が人間を大切に思う心や思いやりを育む意味があるからである。

書くこと,読むことが精神的営みを活発化させる

 さらに根本療法にあえて追加するなら,読書の推奨である。何故なら,文字に触れること,すなわち書くこと,読むことによって精神的な営みが活性化するからである。

 ITを利用することで,人間は本来の意味での書くこと,読むことを拒否する。これについては,書家の石川九楊氏のパソコン(のキーボード)と文学の関係についての分析が鋭い(「文学界」2000年2月号)。「『雨が降る』と書きたいにもかかわらず,手が『amegafuru』や『アメガフル』と打たねばならない分裂は、手の動きと思考との間にずれを生む」「言葉を書くということは、筆尖と紙(対象世界)との間で繰り広げられる言葉の劇」(いずれも上記「文学界」より)であるが,IT機器はそれを否定する。さらに,IT機器は文章の短縮化・絵文字化により,あるいは本離れ現象により,読むことを遠ざける。

 米国の古典学者で,マクルーハンにも多大な影響を与えたとされるウォルター・J・オング セントルイス大学名誉教授は,「どんな発明にもまして,書くことは,人間の意識を作り変えてしまった」として,文字文化によって精神の深さが生まれたとしている(W・J・オング,桜井直文他訳「声の文化と文字の文化」藤原書店)。

 書くことは,読むことから始まる。月尾嘉男東大名誉教授も,「人間は物事を抽象化できる高度な能力を持つ。技術として動画もやり取とりできる時代でも人間が思考するには抽象化して表現することが大切。この力を養っているのが文字・活字だ。」と主張する(日本経済新聞2008年3月25日付)。文字文化を守り育てるために,活字文化推進会議で「21世紀活字文化プロジェクト」を展開している。あるいは,千葉県の高校で始まった「朝の読書運動」は,全国的広がりを見せている。これらの例に見られるような読書推奨の運動を,ますます活発化させていかなければならない。

 さて,これらの対症・根本いずれの療法にも,莫大な資金を要する。その莫大な資金を,どのようにして調達するか。前置きが長くなったが,実はここからが主張の本論である。それは,次回とさせて頂きたい。