「ベンダー・ロックイン」。ITベンダーにとって、こんな甘美な言葉はないだろう。顧客を自社の製品やサービスで囲い込む。他社に参入の余地なし。なんと素晴らしい! でも、ベンダー・ロックインを実現するためには、前提となる別のロックインが必要なのをご存知だろうか。それは「心のロックイン」。その巧劣次第でIT業界の覇者交代も起こるし、裁判沙汰にもなる・・・。

 これまでベンダー・ロックインを最もうまくやったのは、言うまでもなくマイクロソフトだ。他のベンダーがどんなにマイクロソフトの独占体制を非難しようとも、ユーザー企業の情報システムはWindowsだらけ。しかも、ユーザー企業は必要もないのに、Windowsのメジャー・バージョンアップに唯々諾々と従ってきた。

 どうしてマイクロソフトはこれほどまでに、ユーザー企業をロックインできたのか。いろんな観点から説明できるが、一つの大きな理由はマイクロソフトがWindowsでコンシューマ市場を押さえたことだ。そして、消費者の心をロックインしたことだ。メジャー・バージョンアップのたびに量販店に徹夜組が並び、多くの人が最新のWindowsの“クール”な機能に魅了された。そして消費者の心はマイクロソフトにロックインされた。

 消費者は昼間、ビジネスパーソンになる。当然、仕事で使うパソコンは最新のWindows搭載マシンでなければならない。情報システム部門の担当者がWindowsのバージョンアップは無意味と考えても、エンドユーザーである彼らがそれを許さない。なかには社長自身が「なぜ、うちのパソコンには最新のWindowsが入っていないのか」と詰め寄る始末。まあ、システム担当者も最新のWindowsを使いたいので、パソコンのリース切れなどのタイミングで粛々と最新版に切り替えてきた。

 こう書くと「企業システムはそんな単純な話でない」と怒られそうだが、ユーザー企業がパソコン投資を行ううえで、エンドユーザーに不満を持たれてまで、マイクロソフトの製品ロードマップに逆らう理由はない。「コンシューマ分野で起こったことは必ず企業分野に波及する」という最近のITの進化の鉄則が、かくして強力に機能する。

 だから、マイクロソフトは今のWindows Vistaにカネをかけた。プログラムを信じられないくらい肥大化させても、今までにない“クール”なユーザー・インタフェースを作り上げた。最近の言葉で言えば、素晴らしいユーザー・エクスペリエンスを提供すべく万全を期した。ところが、マイクロソフトは大きな判断ミスを犯していた。

 判断ミスとは、消費者の心のロックインが解けていることに気が付かなかったことだ。コンシューマ分野での予想外のVistaの苦戦。実は、多くの消費者がWindowsというか、パソコン環境に“クール”な機能を求めなくなっていたのだ。当然、企業向けでもVistaの導入機運が盛り上がらず、「Vistaはいらない」という声ばかりになる。ユーザー企業に対するベンダー・ロックインにも翳りが見えてきたわけだ。

 では、なぜマイクロソフトに対する消費者の心のロックインが解けたのかというと、インターネットでの“クール”な機能の増殖のせい。そして、新たに消費者の心のロックインに成功したのは、もちろんグーグル。「Web2.0だ」「SaaSだ」「クラウド・コンピューティングだ」とマーケティングな言葉が飛び交い、グーグルやそのお仲間企業のサービスを活用すれば、もうパソコンなんかどうでもいい、そんなふうに考える消費者が激増した。

 で、グーグルも、いよいよ企業向けIT分野に色気を見せ始めた。4月14日には、セールスフォース・ドットコムと提携し、企業向け市場の開拓に本格的に乗り出すことを発表したそうな。「あなたのビジネスをクラウドへ」「ソフトウエアの終焉」とこれまたマーケティングな言葉を振り撒きながら、消費者(=ビジネスピープル)の心のロックインを武器に、マイクロソフトの金城湯池の切り崩しを目指す構えだ。

 ただ、肝心の本国では株価が下落するなど、グーグルの神通力に翳りも見え始めている。すぐに消費者の心のロックインが解け始めるかどうか分からないが、インターネットの世界の変化は恐ろしく速い。グーグルによるベンダー・ロックインが実現するはるか前に、心のロックインが解け覇者交代なんてことも起こる可能性がある。

 さて、最もベタなITビジネスであるSIではどうか。やはりベンダー・ロックインの前提は顧客の心のロックインであるようだ。最近、日本IBMにベンダー・ロックインされていたはずのスルガ銀行が、IBMを裁判に訴える“事件”が発生した。これにはライバル企業も含め、みんな飛び上がるほど驚いた。

 いったい何が起こったのか。普通、こんな大事な顧客に対しては、担当のアカウント営業やSEが完全にフォローする。こうした対応こそが、SIビジネスにおけるユーザー・エクスペリエンスだ。それが満足いくものであるならば、顧客の担当者や経営層の心はロックインされ、やがてベンダー・ロックインも完成する。まして、どんなトラブルでも訴訟沙汰にはなり得ない。

 顧客の心のロックインが完全に解けてしまった。どうやら外部からは窺いしれない深刻な事態が進行しているようである。