7月最後の土日は情報化研究会のコアな仲間と旅行する---。こう決めて今年で10年目になる。この時期にしているのは梅雨明け直後で天候が安定しているからだ。今回は14人で広島の宮島と呉を訪れた。10人は東京から,4人は関西や四国から参加した。

写真●宮島・厳島神社の大鳥居
写真●宮島・厳島神社の大鳥居
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 筆者は5年ぶり三度目の宮島だったが,ちょうど大潮で干潮だったためふだんは海の中に立っている大鳥居まで初めて歩いて行くことができた(写真)。

 二日目は海上保安大学校の准教授であるA女史に,呉を案内してもらった。見学したのは大和ミュージアム,てつのくじら館(退役した本物の潜水艦を陸上展示したもの),海上保安大学校の3カ所だ。呉は明治以来の軍港なのだが,おだやかな瀬戸内の海とおっとりした山容の山に囲まれた町にいかつい感じはまったくなく,こんなところで暮らしてみたいと思うほどいいところだった。

 最も印象に残ったのは大和ミュージアムだ。戦艦大和の10分の1模型をはじめ,大和とともに亡くなった方の遺書や遺品,大和建造にあたった呉海軍工廠の工具や技術者のノートなどが展示されている。ノートに書かれた流麗な筆記体の英文と理解不能な数式を見て,この時代の技術者が英語で教育を受け,英語で思考できたのだなと感心した。日本語のテキストがない,日本人の教師がいない時代には外国語のテキストで,外国人から学ぶしかなく,日本人は自然の成り行きとしてグローバルな人材に育っていたのだろう。今は造船工学だろうが,ITだろうが,中途半端に日本語のテキストと日本人の教員がそろっているばかりに日本ローカルな人材しか育たないのかもしれない。

 さて,印象に残ったのは教育のことではない。大和ミュージアムで解説アナウンスが流れていて聞くとはなしに耳に入った,大和の建造では造船において初めて科学的なプロジェクト管理(工数管理)が行われた,ということだ。今回は戦艦大和建造のプロジェクト管理について述べたい。

西島カーブとは

 大和の建造計画は1937年11月起工,42年6月引渡しという4年半の年月をかけ,予算は2億円,現在なら1兆円をはるかに超える巨大プロジェクトだった。大和は同じ設計図から建造される戦艦の1号艦として官立呉工廠で建造された。2号艦は武蔵であり,民間の三菱重工長崎造船所で建造された。

 大和の生産管理,つまりプロジェクト管理がいかに優れていたかは,同じ設計図から建造されたにもかかわらず,大和の工数が武蔵の2分の1に過ぎなかったことに表れている。工期も計画より半年早く終わらせた。ドンブリ勘定で予算は超過し,スケジュールは遅れるのが当たり前だった親方日の丸の艦船建造の常識を覆すプロジェクトだったのだ。

 それを実現したのがプロジェクト・マネージャーである船殻(船体)主任,西島技術大佐だった。西島大佐は生産効率を上げるために調達する部品・材料の標準化や船体をいくつかの区画に分割して建造するブロック工法など,様々な工夫や新技術を導入した。それらにもましてプロジェクト管理の成果を高めた最大の武器は,「西島カーブ」と呼ばれるグラフによる工数管理の“見える化”だ。

 大和以前にも工数管理はあったが,造船工事は複雑でリアルタイムに生産能率は把握できないという固定観念があった。結果,現場を目で見て人がダブついていれば引き上げ,足りなければ入れるという担当者の勘に頼ったやり方をしていた。西島大佐は,工数や金額は同じ量の生産をしても能率の違いによって変わるため生産量そのものを意味するものではなく,生産量の指標としては重量・数量・面積等を用いるべきという基本的な考え方に立って生産管理を行った。 

 西島大佐は3万枚もの設計図を調べさせ,大和に使われるリベット(鉄板を接合する鋲(びょう))の予定総数が609万72本(実際は615万3030本),溶接の全長が34万7564メートル(実際は34万3422メートル),水圧試験の区画数は1682という数値を得た。この3種類の数字をもとに各工場別,各職区別に工数予定曲線である「西島カーブ」を作成した。このグラフ上に毎週ごとの実績値をプロットすると,予定との乖離(かいり)がはっきりする。実績が予定から外れれば何らかの問題が起こっているということであり,技師はすぐその原因を調べて対処でき,関連する部門間で相互の日程をどう調整すれば影響を最小限に出来るか検討できる。

「見える化」できないもの

 西島カーブで何事もデジタルに見える化でき,機械的に管理できるかというとそうではない。そもそも西島カーブ自体が相互に関連性があり,それぞれのバランスが取れていないと,ある工事が進み過ぎたり遅れたりして次の工程で大きな混乱を生じさせる可能性がある。西島カーブを適切に描くには,造船全般に関する技術知識と深い経験が必要なのであり,機械的に引けるものではないのだ。

 また,一つのグラフでの異常は誰でも気づくが,プロジェクト・マネージャーはいくつもの職場から上がってくるグラフを見て,ある職場のグラフの異常が別の場所で起こっている問題の影響を受けていると見抜けねばならない。それには造船の職場のすみずみに精通していなければならず,単純な見える化にはならないのだ。

プロジェクト管理は逆ピラミッド

 大和のプロジェクト管理から,現代の我々が学ぶべきことは多い。まず,「工数や金額が生産量を表すものではない」という点だ。システム開発やネットワーク構築の仕事量は人月や金額では客観的に測れない,ということだ。その仕事をやる人の能率によって人月や金額は大きく変わる。では何を指標にすればいいのだろう。ネットワーク構築においては基本設計以降の工程は比較的指標を作りやすい。試験項目数,工事拠点数,ネットワーク機器台数,回線数などだ。

 システム開発ではそもそも設計のフィックスが難しく,詳細設計以降の工程でも仕様変更が当たり前のように起こる。大和建造のように,あるいはビル建築のように,設計図が不動のものとしてビクともしないのとは大きく違う。西島カーブに相当するチャート自体が描きづらく,描いたとしても何度も引き直して,最後は現場のSEが犠牲になってつじつまを合わせる,ということが至るところで起こっている。システム開発の「見える化」への道のりはまだまだ遠そうだ。

 もう一つ思うことは,プロジェクト管理の組織はピラミッド型ではなく,逆ピラミッド型だということだ。現場の各部分をデジタル的に可視化しプロジェクト管理をしやすくしたとしても,各部分の連携やバランスに問題がないか目配りし,適切な対処をするにはプロジェクト・マネージャーにシステム全般,ユーザー部門の業務全般,プロジェクトを構成するサブリーダーの能力や特徴,等々アナログな情報を総合し判断する能力が求められる。各部分を構成する下部組織の上に,プロジェクト・マネージャーが乗っかっているというピラミッド型ではなく,プロジェクト・マネージャーが最後のとりでとして下部組織を支えている逆ピラミッド型がプロジェクトの実際の形ではないだろうか。

臼淵大尉

 大和ミュージアムで,筆者はある人物の写真や書状がないかと探したが見つからなかった。それは「戦艦大和ノ最期」(吉田満著,講談社文芸文庫)で有名な臼淵大尉だ。臼淵大尉は沖縄特攻に向かう大和の乗組員たちが,自分たちの死を覚悟した出撃に意味を見出せず激論を戦わせているときに,次のような言葉でその議論を終わらせた。

進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ  私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ,
本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル,ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ
今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ
日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ

 二十歳そこそこの若い人たちが生きたくなかったはずがない。臼淵大尉のこの言葉を初めて読んだときには胸がつまる思いがした。戦況が好転することなどありえないのに,3000人を超える人を犠牲にした大和の沖縄特攻は悔やみきれない過ちだ。明晰で優秀な技術者がいた海軍の軍人が,何故こんな愚かな作戦を実行したのだろう。

■参考文献:「戦艦大和誕生」(上・下)前間孝則著,講談社プラスアルファ文庫

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