怪書に快書。奇書だがきしょくない。

ライトノベルならぬ、ライトサンコーショ?

今年、いやここ数年読んだ中で、最も書評しがたい一冊でもある。

本書「数学ガール」は、まぎれもない一般向け数学書でありながら、同時にロマンスでもある。文庫化するなら、コバルト文庫が一番似合ってそうな数学書というのは、他にないだろう。


まずは数学的に、数学書としての本書とラブコメとしての本書を分けて考えてみる。まずは数学書の方。

目次 数学ガール | 数学 | サイエンス | サイエンス・テクノロジー・メディカル | ライブドア ブックスより追補
  • プロローグ
  • 第1章 数列とパターン
  • 第2章 数式という名のラブレター
  • 第3章 ωのワルツ
  • 第4章 フィボナッチ数列と母関数
  • 第5章 相加相乗平均の関係
  • 第6章 ミルカさんの隣で
  • 第7章 コンボリューション
  • 第8章 ハーモニック・ナンバー
  • 第9章 テイラー展開とバーゼル問題
  • 第10章 分割数
  • エピローグ
  • あとがき
  • 参考文献と読書案内
  • 索引

一目見てわかるのは、本書で扱われている設問が、高校で習う数学から見ると「横道」に当たること。本書は「受験勉強は役に立つ」の観点からは、実に役に立たない。というより、受験勉強に役立ちそうな知識はそこが出発点で, テトラちゃんの言葉を借りれば、

p.223
「これらの《微分のルール》は、a prioriにgivenとするのですね」

ということになる。その意味では、本書の「数学部分」は、高校で習う数学をきっちりやっていないとつらいかも知れない。これははっきり言って、本の売れ行きを考えると小さからぬハンデだ。にも関わらず、結城浩(ああ、敬称略にするとなんだか新鮮です>hyukiさん)がそのハンデを恐れずにそうしたのは、「数学はやさしい」ではなく、「数学は美しい」ことを描きたかったからに違いない。だいいち、「幹線道路」に関しては、すばらしい本がすでに数多く書かれている。本書の参考文献もそうだし、本blogでも「404 Blog Not Found:Math」で何冊も紹介している。それが「数学ガール」である必要はないのだ。

著者のセンスを感じるのは、その「横道」と「幹線道路」の距離。横道に見えるが、実は幹線道路からはそれほど離れていない。例えば「ωのワルツ」と「テイラー展開とバーゼル問題」をちょっと組み合わせれば、「オイラーの贈り物」はすぐそこだ。しかし、オイラーの贈り物は、美しいと同時にあまりに役立ちすぎる。どうしても「受験勉強臭く」なってしまうのは否めない。それでは本書の「ロマンス」部分が損なわれてしまう。余談ではあるが、ミルカさんとテトラさんは、和田秀樹には見向きもしないだろう。

それで「ロマンス」部分だが、本書は「僕」が、数学が得意な才媛・ミルカさんと、元気少女・テトラちゃんと一緒に数学の小径を散歩する本である。この部分が、「フィクション」として読者の好みが分かれるところだろう。ロマンスとして見た場合、本書はかなりの薄味だ。少女漫画でも、ここまで淡い味付けのものは昨今珍しいかも知れない。それでもその味がはっきりとわかるのは、まさに「背景」が数学だからだ。ここにおいて、数学は凛と澄んだ冬の夜空の役割を果たしている。他の科学でさえ、「光害」が強すぎるだろう。この「舌に神経を集中しないと味わえない」感こそ、本書の一番の魅力である。

それでも、私ならあえてミルカさんを「僕」の一年後輩(本書では同級生)、そしてテトラちゃんを一年先輩(本書では後輩)にする。数学においては主人公たちの年齢でも充分先輩後輩の逆転は起こるし、その方が物語がなめらかになったと思う。テトラちゃんは「僕」より数学が苦手となっていることにはなっているけど、まじめに授業を受けるタイプなので、一年先輩にしておいた方が「相加相乗平均ですね」という台詞の違和感がなくなるし、ミルカさんの才媛ではあるがゆえに、「a prioriにgivenされること」をよしと姿勢も、「そもそもまだ授業でやっていないのでgivenされていない」という設定になってすっきりする。「さん」と「ちゃん」はそのままでいい。一年先輩の朝比奈だって「みくるちゃん」ではないか。もっともこの場合、「僕」という便利な記号が使えないのが難点でもあるが。まさか「キョン」というわけにもいかないし。

本書のもう一つの難点が、英語。

まず「数学ガール」とはなんですか、hyukiさん、これじゃ「僕」はミルカさんからもテトラちゃんからもつるしあげられちゃいますよ。「数学ガール」ですよね。

次に、ここ

P. 175
「テトラちゃんの発音はきれいだね。"n exists"でもいいし、"there exists n"でもいいよ。such thatを補うとわかりやすい」
For all M in R, there exists n in N such that M < Σ 1/k

such thatは間違いではないけど、滑らかな英語とは言いがたい。suchはうしろに名詞がないと座りが悪いのだ。"there exists such n in N that M is smaller than the sum of one over k"と読む。なれればどってことないのだけど、such thatの代わりにもっとすっきりと切れのある where をここでは推しておく。

これまた余談だが、ミルカさんはvectorを「ヴェクタ」と発音する点がマイ萌え要素。私もしょっちゅう家庭教師や塾の講師をしていたころ(そう、ミルカさんぐらいの年頃)に、そう言っては生徒に直されてちょっと悲しかったので。これはまだいいのだけど、scalarを「スカラー」でなく「スケイラー」と発音すると、彼らをおいてけぼりにしてしまう。

それにしても、私にとって「僕」が心底うらやましいのは、このくらいの時分に、「一緒に歩く」相手がいたこと。大学に行くまで、私にはそういう相手がいなくてほんとさみしかった。大学に行けば行ったで、歩調の合う相手はそれほどいなかったのだけど。見えないほど速いか、見たくないほど遅いかのどちらかで。それでも0が1以上になった時のうれしさときたら!

本というのは、ネットとは比較にならぬほど一方的なメディアだ。それでこれだけ「一緒に歩くよろこび」を感じられる本というのは滅多にない。考え抜くのは孤独な作業だけれも、それを話す相手がいてはじめてその孤独に耐えられるのが人というものではないか。「ペアプログラミング」ならぬ「ペアラーニング」(途中から3Pになるけど:)を、あなたも是非本書でぜひ味わってほしい。

Dan the Math Boy


編集部より:今回の記事は,小飼弾氏のブログ404 Blog Not Foundより編集し転載させていただきました。本連載に関するコメントおよびTrackbackは、こちらでも受け付けております。

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