先日,経営情報学会関西支部に招かれ,日本IBM広報の川嶋輝彦さんと講師を勤める好機がありました。川嶋さんがお話になったテーマは「イノベーション・ジャム(Innovation Jam)」という斬新な経営革新手法でした。

 イノベーション・ジャムは2006年の7月,67社のお客様企業を含む75カ国,15万人以上の参加者を集めて開催されたIBMグループの「全世界全社規模のネット会議」です。72時間にわたる2回のセッションで,同社の経営革新を図るための4万6000件以上のアイデアが提出されました。

 単なるアイデアフラッシュで終わらせないために,11月にはこれらのアイデアから10種類の新ビジネスが厳選されました。さらに,その推進に向けて,今後2年間で1億ドルを投資していくことも併せて発表されました。また12月には,今後5年間に人々の働き方や生き方,遊び方を一変させる可能性を持った5つのイノベーションを「IBM Next Five in Five」としてまとめたのです。

 IBMグループが全世界規模で実施した同様の試みは,今回で3回目だそうです。IBMにとって,こうしたネットを使ったジャムセッションがなぜ必要なのか。3回の経験で何を学び,どんな成果を挙げようとしているか。経営情報学会関西支部の講義における川嶋さんとのディスカッションで,意義の片鱗を感じることができました。さらに,こうしたIBM社内の取り組みを,社外のPR・IR(投資家向け広報)・CSR(企業の社会的責任)などに生かす方法も思いつきました。

1990年代にかけての経営不振で会社が変わった

 IBMにとって,なぜイノベーション・ジャムが必要だったのかという川嶋さんのお話は,説得力に富むものでした。

 1980年代中頃まで,IBMの利益,収入,株価,社員などの経営指標は,すべて右肩上がりで順調な成長を続けていたそうです。そして,「最も尊敬される会社」としての敬称もほしいままにしていたのです。その成長の背景には,1914年の創業当初からの経営理念がありました。基本的な信条として「個人の尊重 最善の顧客サービス 完全性の追求」が挙げられ,それは,まさにIBMの文化を醸成して,意思決定,経営方針,あらゆるプログラムに反映されていきました。

 しかし,90年代にかけて,汎用コンピュータからパソコンをつかったオープンなネットワークへと時代の流れが変わるに従い,今度は右肩下がりという未曾有の危機にさらされてしまったのです。

 そこで,元コンサルタントのルイス・ガースナー氏が,IBMのCEO(経営最高責任者)に抜擢されました。ガースナー氏はまず,出血を止めるために,徹底した経費削減,コア事業以外の売却,人材も含むリストラクチャリング,ビジネス・プロセス・リエンジニアリングを実施したのです。危機的な状況の中で,創業以来の「リストラはしない」という伝統にも手を付けざるを得なかったのでしょう。

 やがて,経営が安定しはじめると,チームワークで実践して勝つといった明確な経営方針,ビジョン,サービス事業化を核とした新しいブランド戦略を内外に浸透させていきました。そして,いちはやく,インターネットを活用したeビジネスというコンセプトを世に広めながら,リーダーシップを復活させていったのです。

社員を惹き付ける新しい求心力としてのvalue

 しかし,痛みを伴う大変革の後に新たな成長を続ける中で,社内外に問うべき次代のブランドビジョンが必要になりました。

 なぜなら,急激なリストラと事業転換により,社員構成の変化が起こり,半数以上の社員は在籍5年未満という特異な人材構成になったからです。さらに,中途採用,M&A,アウトソーシング契約を通じてIBMに加わる社員が増大しました。かつてのように,創業以来の理念に基づき,入念な新入社員研修とキャリアプランで生粋の“IBMer”を育ててきた時代とは「違う形での求心力醸成」が必要になったのです。

 また,事業形態が変化して,ハードウエア事業からサービス事業に主体が移り,全体の半数以上の社員がコンサルティングやサービスに従事するようになりました。IBMブランドはプロダクトにつけられるマークではなくなりました。クライアントから信頼される一人ひとりの「社員」に冠せられるものに変わりつつあるのです。

 そうなると,一人ひとりの社員の力を引き出し,“ONE IBM”としての力を発揮するための「価値に基づく経営=VALUE BASED MANAGEMENT」が重要になります。170カ国の32万人にものぼる多種多様な社員を,共通の理念や価値観のもとに結集して,社員全体の熱意を方向付ける必要が生じたのです。

2003年に第1回全社公開ディスカッションValues Jam

 そこで,2003年の7月29日から8月1日にかけての72時間で,全世界の社員がイントラネット上で公開ディスカッションを行うValues Jamが開催されました。そのネット会議には2万2000名が参加し,108万ページビューが閲覧され,9337件ものコメントが寄せられました。

 初回のテーマは,「IBMのバリューは? IBMにバリューはあるのか? 次代のIBMのあるべき姿と必要なバリューは?」といった最も根源的な問いかけでした。ガースナー氏からのバトンタッチを受けたサミュエル・パルミサーノ新CEOは,IBMの次代における経営理念を,リーダーがトップダウンで決めるのではなく,なるべく多くの社員の意見を聞き入れて作ろうとしたのです。

 こうしたネット会議を通じて寄せられた意見をもとに,3つの「IBMers Value」が定義されました。その3つとは,「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち,そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」です。

理念を作っただけでは,全社員の心に響かない

 しかし,Values Jamを通じて,かつてない規模で,しかも驚くほど民主的なプロセスで,自社のコアバリューを決定したにも関わらず,事後の調査は寂しい結果に終わったそうです。

 バリュー調査の内容は,新しく定義されたIBMの「バリューに気がついたか」「バリューを理解したか」から始まり,「バリューが現在の仕事の仕方に反映されているか」までの選択肢の中から各社員が選ぶものです。その結果「実感」と「実行」の間にギャップがあることがわかりました。社員の半数以上が,バリューを日常業務に反映していなかったのです。

 いくら立派な理念を作ったところで,現行のマネジメントシステムや社内プロセスに問題があれば,それがバリュー実現の阻害要因になることがわかりました。さらに,社員の多くが直属のマネージャーによる方向性の設定やフィードバックが十分でない,と思っていることがわかったのです。

 だからこそ,さらに踏み込んだ意思決定と意思統一が必要でした。2004年10月26日から28日にかけて,第2回のネット会議「World Jam」が開かれました。今度は,役員=シニアエグゼクティブたちがリードして,6つのテーマに分かれてディスカッションフォーラムで議論をすることになりました。

 特筆すべきは,まず,ネットで百出した数あるアイデアの中から,最も素晴らしいアイデアを社員投票で選出したことです。さらに,IBMのトップマネジメントが,選出されたアイデアを着実に実践することを宣言し,指示したのです。

 こうした,より具体的な展開を受けて,ネット会議の参加ユーザー数は2.5倍に,投稿されたアイデアも3倍以上に急増しました。また積極的な発言をしないまでも,4万人の社員がそれぞれのアイデアを評価するレーティングに参加して,50万ページビューのアクセスを得ました。

 その結果,191の具体的なアイデアに対し,100万票もの投票が寄せられ,その中から,35のアイデアが実現されることになりました。採用されたアイデアは,例えば,意思決定の重心を下げてお客様の成功に向けて組織を再編すること,マネージャーがよりよいマネージャーになるために予算権限を委譲すること,社内のイノベーションと成長を実現するためにグローバルなコラボレーションを実現するポータルを活用することなどでした。