先日,日本財団CANPAN道場にて,日本未来学会の会長で,フィランソロピー(社会貢献)の第一人者でもある林雄二郎先生の講演を聴く好機がありました。

 林先生は,1969年に出版したベストセラーの題名で,はじめて「情報化社会」という言葉を生み出し使った先達です。このたび復刊された名著「情報化社会」を遅ればせながら拝読して,私は愕然(がくぜん)としました。40年近く前に書かれた本に,ようやく実現した「新しい現実」や,まだ実現していない「未来」が鮮やかに描かれていたからです。

 だからこそ,林先生が「今,お考えのこと」を直接お聴きできる講演会を心待ちにしていたのです。さらに,今回の講演会のコーディネーターで林先生に私淑するデジタルメディア研究所オンブック代表の橘川幸夫さんから,特別なお誘いを受けました。講演会の前後に,林先生と直接お話をできる好機をいただいたのです。

 果たして,講演会と楽屋裏での林先生のお話は,単に情報化社会のお話にとどまりませんでした。文明と文化の違いに始まり,未来予測の手法から一個人として楽しく長生きをする極意まで,91年間にわたる長い人生で培った叡智の一端を教えていただいたのです。

 そこで今回は,私が大いに触発された,夏休みの必読書「情報化社会」と,講演会や楽屋裏対談のエッセンスをご紹介いたしましょう。

名著「情報化社会」はITに振り回される現代人の必読書

 林先生が「情報化社会」で予言したのは,例えば,今の言葉で言えばインターネットが張り巡らされるような「情報技術=ハード」の未来ではありません。むしろ,情報化社会が到来した時に「人はどう生きるか=ソフト」ということが主たるテーマでした。

 同書のサブタイトルはまさに「ハードな社会からソフトな社会へ」です。冒頭の扉に書かれた次のメッセージを読むだけで,この本の先進性を直観していただけるでしょう。

情報が氾濫する社会に,私たちはどうやって対応していったらよいのか。
 今日,情報化社会について考えるとき,ともすると
 コンピュータによる効率的な社会を考えがちである。
 あるいは,情報や時間に追いまくられる生活を想像する。
 これでは社会的緊張や機械人間が増大するのも無理はない。
 しかし,情報化社会が真に目指すのは,
 ”有効な無駄”を常にソフトにセットしておく社会である。
 そのために,私たちはこれまでの無駄に対する価値観を変え,
 無駄のなかから価値を見つける思考が,必要になっている。
 本書は,あるべき情報化社会の姿を描きながら,
 思考の方法や社会システムのあり方などを具体的に提言する。

 もし私が,今はなきソフト化経済センターの客員研究員として日下公人先生の教えを受けていなかったら,また「情報化社会」復刊に尽力した橘川幸夫さんに出会っていなかったら,林先生が予見した「無駄の効用」や「ソフト」の意味がまったく理解できなかったでしょう。

 加えて,この数年間というもの,1日数百通のメール,メルマガ,ブログに翻弄される暮らしを送ってみたからこそ,はじめて実感できる言葉でもあります。

情報化社会は一億総スパイ化?一億総機械人間化?

 それでは「情報化社会」の中身を,本と講演録から抜き書きしてみましょう。

 当初,林先生が「情報化社会」という題名を提案した時に,出版社はウンとは言わなかったそうです。今でこそ当たり前の言葉ですが,情報という言葉には当時,戦争中のスパイのイメージがついてまわったそうです。その証拠に,親しい友人からも「一億総スパイにするつもりか」とさえ言われた,と聞きました。

 そこで,林先生は,まず「情報」とは何かを定義しています。「情報=影響力のある知らせ」であり,さらに詳しく言えば「情報とは,可能性の選択指定作用をともなうことがらの知らせである」。

 この定義のキーワードは「影響力」「可能性の選択指定作用をともなう」でしょう。裏返せば「NEXT TO DO=次なる行動」に役立たない知らせは「情報」ではないことになります。

 今日,それこそGoogleひとつで世界中の情報を探して,一億総スパイにでもなれる環境が整ってはいます。しかし,漫然とネットでニュースを流し読みしていたり,ネット&ブログサーフィンをしていたりするだけで行動に移さなければ,目にしている知らせは「情報」ではないとも言えます。

 林先生が予見した通り,見かけ上「情報」が氾濫することで,逆に,「情報」が「情報」の意味をなさなかったり,「時間」にだけ追いまくられている人が多いのではないでしょうか?情報化のおかげで,かえって社会的緊張が高まると同時に,自分の頭で考えない「機械人間」が増大するのは,皮肉なことです。

文明の時代から文化の時代へ,アイデンティティを持てるか

 林先生は,文明と文化は異なり,これからは文化の時代であると力説されました。

 文明は,万人に共通の便益をもたらし,生活を便利で快適にするものと定義されています。情報機器の発達は,まず文明の利器をもたらし,人々の暮らしは便利になっていきました。三種の神器と呼ばれた冷蔵庫,洗濯機,テレビに続いて,3Cと呼ばれたカー,クーラー,カラーテレビが,多くの家庭に普及していったのです。今では,当たり前と思える文明の利器のおかげで,人々の暮らしは一変したのです。

 対して,文化は人間にとってアイデンティティを与えるもので,自分が自分であることをはっきり自覚させられるものです。文明が,多くの人にあまねく同じような生活様式を提供するのとは,大きく一線を画すのです。

 ですから,文明の利器とひとくくりにされる三種の神器や3Cの中でも,テレビ・カラーテレビは文明財ではなく文化財だと,先生は主張されました。一人ひとりの心の様相は違い,言うに言われぬ差異があります。テレビをはじめとして,情報機器は,人間のこころに直結して,その差異を際立たせる作用があるのです。

 例えば,最初,テレビが一家に一台で,チャンネルがひとつだった時は,茶の間のテレビのおかげで家族は団らんしたのです。しかし,複数の民放が放送を開始してから,家族それぞれの好みがバラバラになって,チャンネル争いが起こりました。さらに,住宅事情まで西洋化して個室の子供部屋ができ,テレビも安価になってそれぞれの個室に置けるようになると,茶の間の家族の団らんは壊れてしまいました。

 林先生は,テレビの普及により,こうなることは最初から予見していたのです。

文明が発達して得ることは多いが,失うものも多い

 しかし,文化の時代にふさわしいアイデンティティを一人一人が確立するのは,簡単なことではありません。たしかに情報機器の発達で便利にはなりましたが,良いことばかりではないのです。

 例えば,電話は便利ですが,林先生は手紙の利点を強調します。たしかに,電話がない時には,離れている人には手紙を出して,受け取った人は返事を出してと大変手間がかかりました。しかし裏を返せば,手紙を書くときにはゆっくりと考えることができますが,電話では考えている暇もないので,結果として深く考えなくなりがちです。

 楽屋では先生と,昨今の「インターネットで簡単に検索できるため,自分の目で確かめない,自分の頭で考えない人が増えている傾向」についてもお話をしました。林先生は,この文明の利器の副作用についても嘆いていらっしゃいました。電話は家庭への普及に時間がかかったので,手紙から電話への移行時の影響はゆるやかでした。しかし,携帯電話やインターネットの普及はあまりに急激でしたので,人々の思考パターンに大きな影響があるでしょう。

「便利になればなるほど,人間は,考えることをしなくなった。考えないのが当たり前になった」

 これは由々しき事態です。文化の時代=アイデンティティ・個性の時代は,自分の頭で考えることが何より大切になるにも関わらず逆行しています。そこで,「考えない秀才」より「考える鈍才」が伸びると,林先生は強調されました。