1971年6月に入ると,発注したROMも出来上がり,量産試作機も完成した。この頃の私は,開発した電卓の信頼性試験のための量産試作や,工場へ移行させる生産技術などの仕事で目が回るように忙しかった。発注したROMを搭載した電卓が動作してもあまり感動しなかった。インテルでは量産用テスターが未だ出来上がっておらず,かといって電卓の生産を延期することはできなかった。

 とりあえず,電卓の量産試作機を1台送り,それをテスターの代わりに使ってもらうことにした。私の記憶では,その試作用電卓は,インテルでの8080の設計や,ザイログでのZ80の設計にも使われ,1977年頃まで正常に動作していた。

 NCR向け電卓の開発は恐ろしかった。メカの本家であるNCRが作った絶対に壊れないロボットが持ち込まれ,何日も何日も電卓のキーを打ち続けた。信頼性や品質の保証の厳しさを教えられた。悲鳴を上げて,キーボードが打たれ,プリンタから紙が打ち出された。電卓に「壊れるな!壊れるな!もう少しの辛抱だ!」と叫び続けた。地獄のような1週間だった。


図1 4004シリーズを使ったプリンタ付き電卓用基板(マウスオーバーでコメントを表示します)

 ビジコン141-PFの開発にあたっては,生産技術と品質管理の人達に本当にお世話になった。私だけ日の当たる仕事をやらせてもらって,本当に感謝している。

 4ビット・マイクロプロセッサの電卓への採用により,16桁の乗算を行うためには17桁目の特殊なプログラムが必要とされた。ROMの総容量を1Kバイトに抑えるために,予定していた桁数が16桁から14桁へと減少した。このことが4ビット・マイクロプロセッサ採用時の唯一の気掛かりであり,電卓開発時の唯一の心残りであった。今でも電卓開発者としては納得していない。

 一方,電卓用としては比較的大容量のRAMの使用が可能になったため,キーボード制御において最大8ストロークの入力バッファが容易に追加された。演算中であってもプリント中であってもキーボードの入力を受け付けることが可能となった。当時としては先進的な機能であった。

 それまでの電卓ではプリント中にはキーボード入力を受け付けられなかったので,キーボードを機械式にロックする高価なキーボードを使っていた。プログラムの採用により電子的な入力バッファ搭載が可能となり,低価格なキーボードを採用することが可能となった。さらに,米国市場は電動加算器のマーケットであったため,小計と合計の両方が計算できる2アキュムレータ方式のプリンタ付き電卓の開発が可能となった。

 141-PFは1971年10月に発売された。数値語は,数字14桁,小数点1桁,符号1桁となった。演算速度は,プリント時間を含んで,加減算が0.45秒,乗算が1.1秒,除算が1.2秒となった。使用したレジスタは,入力バッファに1本,合計器に2本,メモリーに1本,演算用レジスタに3本,プリント用バッファに1本,合計8本となった。キーボードは少なくとも2回スキャンする必要があり,キーボード・コンタクトの仕様を25ミリ秒とした。消費電力は20W,外形寸法は幅212x奥行335x高さ129mm,重量は5.8Kgだった。

 マイクロプロセッサの導入により,高付加価値製品の開発が可能となり,システムの機能仕様は搭載するメモリー容量で決定されるようになった。いかに作るかといった時代から,何を作るかという創造が要求される時代となったのである。


図2 4004シリーズを使ったプリンタ付き電卓

 一方,インテルでは,4004シリーズLSIが電卓以外の応用に売れそうだと,ホフとファジンが4004シリーズLSIの外販を上層部に強く進言した。インテルは1971年6月から8月にかけてビジコンと交渉を重ねた。ノイス博士が私にとウイスキーを持ってビジコンを訪問してきた。電卓の大量生産化競争における資金的問題が生じたビジコンは,開発費の返却と4004シリーズLSIの低価格での入手という条件で,インテルに4004シリーズLSIの外販を許可した。

 インテルでは9月にマーケティングの最終的な決定がされた。「集積回路の新たなる時代(a new era of integrated electronics)」という,ゴードン・ムーアが自ら考えたキャッチフレーズで,世界初のマイクロプロセッサ4004の広告が,1971年11月15日の「エレクトロニック・ニュース」誌に掲載された。広告は,「MCS-4マイクロコンピュータ・システムは4ビットのCPU,ROM,RAM,シフトレジスタで構成されている。CPUチップとは4ビットのパラレル・システムバス,16個の4ビット汎用レジスタ,4ビットのアキュムレータ,アドレス用プッシュダウン・アドレススタックなどを1チップ上に集積しているマイクロプログラマブルなコンピュータである」と続いていた。

 電卓用に誕生したマイクロプロセッサは,1979年には年間7500万個も売れ,1986年には日本市場と日本からの輸出だけで年間4億個も売れる20世紀最大のヒット商品の一つとなった。マイクロプロセッサという言葉は1972年にインテルによって作られた新語である。

 4004CPUは,テッド・ホッフと私が,1969年6月から12月にかけて,半年間の苦労で発明し,発展させたものである。それを助けるためにコミュニケーションに協力した人や,それ以後にプロジェクトに参加した人や,事実を証明できない人などが発明を主張することがあり,困ったことである。歴史の真の姿をぼやかし歪めていることに肌寒さを感じている。

 インテルでも4004CPUの論理設計者については1979年まで口を閉ざしていた。1984年になってようやく,私が4004CPUの論理設計を行ったことを社史で認めた。

 1999年1月に開催された半導体誕生50周年記念大会で,ホフとファジンとメイザーには「Inventor of Microprocessor」という称号が,私には「Inventor of MPU ( Micro Processor Unit ) 」という称号が与えられた。事実は逆であった。MPU本体を発明したのはホフであり,マイクロプロセッサに仕上げたのは私であった。出席者は,誰もが知っていたが,黙っていた。

 受賞スピーチが終わって席に戻って来ると,「一人でスピーチが出来ただろう」と言われた。そう言われてみると,インテル側では,ホフだけが受賞スピーチをした。ギブアンドテイクだったのだろうか。受賞スピーチでは,ちょっと威張って,「私はマイクロプロセッサというフォーチュンを皆さんに持って来た」と言ってしまった。同伴した妻には「言い過ぎだ」と怒られ,少し恥ずかしい思いがした。

 半導体誕生50周年記念大会には,半導体とマイクロプロセッサの開発者が一堂に集まって,大勢の懐かしい顔,顔,顔があった。2年ぶりの再会だったが妙に懐かしかった。しかし,アジアからは,台湾や韓国からの出席者は多かったが,日本からの出席者はほとんどいなかった。この頃,すでに,日本は忘れ去られてしまったのだろうか。

 世界初のマイクロプロセッサ4004CPUとそのファミリーLSIが成功裏に開発された理由に,電卓に採用したプログラム論理方式で触発された基本的アイデア自身が第1に挙げられるが,応用技術,アーキテクチャ,論理,回路,レイアウト,それぞれの開発技術者と設計技術者が非常にうまく仕事の引き継ぎをしたことも成功の理由の第2に挙げられる(次回に続く)。