4004シリーズLSIを使ったプリンタ付き電卓の量産がスムースに開始されたので,私は4004シリーズLSIをビジコンの新製品に応用できるように,若手の技術者への教育に専念した。ビジコンでは,4004シリーズLSIを使って,TTLを使うとコスト高となり商品化が困難だったキャッシュレジスタをNCR向けに開発した。


図1 4004シリーズを使ったNCR向けキャッシュレジスタ


図2 4004シリーズを使ったNCR向けビリングマシン

 日本に帰れば組織上,4004シリーズLSIの開発は例外で,私はただの平社員だった。私自身が責任者となり新しいプロジェクトを提案することは望めなかった。しかし,4004CPUを開発することにより,開発者魂が体に染み付いてしまっていた。

 4004シリーズLSIとプリンタ付き電卓の開発の成功で社長賞をいただいた。受賞スピーチで何を話したかは忘れたが,その会場と雰囲気は,今でも忘れられない。会社の皆には申し訳なかったが,退職することに決めた。

 新天地を求めて,1971年9月にビジコンを退社し,リコーに入社して横浜のシステム開発部門で働くことになった。リコーで手掛けた仕事は,後年8ビットのマイクロプロセッサの開発に大いに役立った。

 最初の仕事は,紙テープ読取装置とテープさん孔装置を備えたIBM社製電動タイプライタにコンピュータ用インタフェースを設ける仕事であった。次に,CRT付きグラフィックス用ミニコンピュータを日立の大型コンピュータのチャネルに接続する仕事や,高速タイプライタ用電子制御部の設計などの仕事をした。また,システム部門では,品質管理を重視して,全員がベテランの社員を講師にして勉強した。この勉強会も,その後の私の財産となった。

 とりわけ,事務用コンピュータRICOM-8に搭載した磁気ドラム装置の検査機の開発は,8080の開発に大いに役に立った。その検査機の本体には日本電気製の8ビットのミニコンNEAC-M4を使用した。磁気ドラムとメモリー間のデータのやり取りは割り込み機能やDMA(Direct Memory Access)機能などを使って行った。8ビットのミニコンの論理回路と命令体系とアセンブリ言語とペリフェラル機能を完璧にマスターした。

 このように,自分の意思とは関係なく,偶然にも8ビット・マイクロプロセッサの開発に必要な知識と経験がすべて,リコー入社後の14か月で身に付いた。電子工学もコンピュータも大学で勉強しなかったので,要求された多くの新しい仕事を素直に引き受け,素早く仕事を完成させたことが私の開発履歴書を豊かにした。

 リコーで落ち着いて仕事をしている時に,1972年4月にインテルのマーケット・マネージャのエド・ゲルバック(Ed Gelback)とファジンがマイクロプロセッサの売り込みに日本にやって来た。私は「懐かしい,ファジンや皆はどうしているのだろう」と久し振りの再会を楽しみにした。ところが,帝国ホテルでゲルバックとファジンに会うと,考えてもいない「インテルへの入社」の要請があった。眠りに付いた野望を無理やり目覚めさせられた思いであった。

 当時の米国では人種差別が烈しかった。日本人も例外ではなかった。日本人技術者が働くには決して好ましい社会体制ではなかった。日本にいてインテルが永久滞在許可証(グリーンカード)を取れたらと,不可能な要求を出して,消極的な返事をして別れた。8月になっても永久滞在許可証は手に入らなかった。インテルから,「本人がアメリカに来れば,サンフラシスコの最高の弁護士を雇って永久滞在許可証を3カ月以内に手に入れる」との手紙が来た。リコーでの仕事も面白くなり,7月に結婚したばかりで,公私ともに忙しい状態が続いていた。

 しびれを切らしたインテルは,ノイス博士がリコーの技術部門の取締役に電話を掛け,私の渡米を要請した。「名指しで技術者を採るとは何だ!」と怒られたが,4年間の休職を与えてくれた。ノイス博士からの一本の電話が私のそれからの人生を変えた。開発者魂に火をつけられ,マイクロプロセッサ開発人生が始まろうとした。大げさに言うと,司馬遼太郎の小説「花神」の主人公である時代の要求により登場した大村益次郎に自分自身を重ねた。自分も死ぬのかなと,一抹の不安が頭を横切った。

 1972年11月7日に,ジャンボ機ボーイング747が就航していたが,ハワイ経由でサンフランシコに到着した。7年と5カ月にわたって無我夢中で走り続けた米国でのマイクロプロセッサ開発人生の幕開きであった。