前回のコラムについては多くの方からコメントを頂きました。どうもありがとうございました。

 その中で,「伝説」の英訳は“legend”か“myth”かという議論がありましたが,言葉というものは,1対1の対応で片付けられるものは少ないです。このコラムでもできるだけニュアンスや語感について解説し,読者の皆さんが文脈によって使い分けられるようにサポートしていきたいと思っています。

IT業界のカタカナ用語は翻訳者泣かせ

 さて,カタカナ語が専門用語として多用されているIT業界では,いざ日本語にしようとすると適訳,的を得た表現が見つからないという場面によく出くわします。今回は,そうした翻訳者泣かせのカタカナ語を集めてみました。

・Sanity check(サニティー・チェック)
 Sanityというのは「正気」という意味で,もとは精神状態を表す言葉です。これに対し,「狂気」はinsanity。“That's insane!”といえば,「それは狂気の沙汰だ」「そんなばかな!」「それはひどいよ!」というニュアンスを持っているのです。

 IT業界でよく耳にするsanity checkは,細かくチェックするのではなく,とりあえずつじつまがあっているかどうか,明らかな不整合や不具合がないかどうかを手早く確認することです。ソフトの開発工程やバグ修正でよく使われています。

 それではsanity checkをどんな日本語に翻訳すればいいかというと,ニュアンスがうまく伝わるような適訳がなかなか見つからないのです。「正気確認」と訳したら絶対に通じないでしょう? 仕方なく,要所確認,駄目押し確認などという意訳を私は当てています。

・Compromise(コンプロマイズ)

Both parties need to compromise to reach an agreement.
  (両方の政党が合意に向けて譲歩する必要がある)

 このような文脈であれば,compromiseには「妥協する」「譲歩する」という適訳がありますね。折衷,歩み寄りというニュアンスで使われる場面が多いです。それでは次の文章ではどうでしょうか。

Security was compromised.

 この場合のsecurityは,情報のセキュリティでも,防衛や安全保障のセキュリティと解釈してもよいです。受身形になっていることがヒントです。

 他動詞のcompromiseには,「危険に曝す」「欠陥を生じさせる」「名誉や信用を損なう」「傷つける」という意味があるのです。ですから,この場合は「セキュリティが破られた」という意味になります。

 この場合のcompromiseの名詞形は何と訳せばよいでしょうか? 防衛線であれば「突破」,セキュリティであれば「侵害」などが妥当でしょう。ただし英語では,“security compromise”よりは,“security breach”の方が自然な表現です。

 compromiseやbreachには,「欠陥は生じたものの,破壊までは到達していない」というニュアンスがあります。裏返せば,「まだ被害の発生を食い止めることができる」という含みがあるのです。

・Show-stopper(ショーストッパー)
 これもソフト開発場面でよく使われます。「リリースを遅らせても修正しなければならないような重大なバグ」という意味で「ショーを止める悪い奴」と呼ばれているのです。クリチカルバグ(critical bug)の中でも特にクリチカルなものを指し,次のように使います。

“This problem can be a show-stopper.”
“There is no show-stopper so far.”

 ちなみにクリチカルパス(critical path)と言えば,リードタイムが一番長い項目や一番長い時間がかかる工程を指します。

・Accessibility (アクセシビリティ)
 「アクセス性」と訳せばわかったような気になってしまいがちですが,情報へのアクセス,ネットワークへのアクセスなどの用法の他に,「身障者にも利用できる設計」という意味があります。日本でよく使われている「ユニバーサルデザイン」は,英語圏ではuniversal designよりも,universal accessという方が通じやすいでしょう。文脈で判断しないと適訳が出てこない例の一つですね。

・Ready(レディ) 
 “Are you ready?”こんなにも単純で意味明快なセンテンスなのに,いざ仕事の場で適訳を探そうとするとけっこう難しいのです。「あなたは,もう準備ができましたか?」という意味ですが,日本語では普通,こんな言い方はしないでしょう?

 「もう,いいかい?」「ま~だだよ」──なんて,悠長なテンポはそぐわないかもしれませんが,でもまさしくこのニュアンス。口語では「準備できた?」とか「出かけられる?」。主語がitであれば,「それの用意はできていますか?」 → 「できた?」となるわけです。こなれた文語体にするには,文脈に合わせて工夫が必要になります。

The print-ready document is on his desk.
 
 こうした用法も手強いですよ。「すぐに印刷できるように準備が済んでいる文書」のレディをどう訳すか。ついついプリントレディとしたくなりますが,「プリントレディのドキュメントが彼のデスクの上にあります」という訳ではあまりにも日本語がかわいそうです。「あの書類は印刷すればいいだけになって彼の机の上に置いてあります」ではどうでしょうか。