5月24日,日本新聞協会主催のセミナーで講演するため大阪に向かった。京都駅の手前で渡る鴨川には,もう川床(かわどこ)が設けられていた。川床は河畔の料亭が川の上まで張り出した桟敷で,川風にあたりながら料理を楽しむことが出来る。初夏のさわやかな風に吹かれるのは気持ちがいいことだろう。帰りに立ち寄りたくなった。
日本新聞協会は新聞倫理綱領を制定し実践する自主組織として,全国の新聞,通信,放送各社が1946年に創立した社団法人で,約140社から構成されている。活動の一環として各種のセミナーや研修を行っている。今回のセミナーはIT部門の方が対象で,全国から100人あまりの方が参加していた。筆者の講演テーマは「Web2.0/NGN時代の企業ネットワーク」。副題が面白い。“「さよなら,マイクロソフト」が始まった”だ。今回はこの講演のエッセンスを紹介したい。
“ワクワク感”がなければ始まらない
筆者はこの20年,「オープンなネットワーク設計をし,ユーザーが主導権を持ってネットワーク機器や回線サービスの選択・リプレースを出来るようにしましょう」ということを言い続け,本にも書いてきた。そして,ネットワーク・レベルでは「さよなら,ブランド」を実現した。IP電話で話題になった東京ガスのネットワークも,本コラムで紹介した積水化学のネットワークもブランド品は使っていない。ルーターもスイッチも低価格で品質・性能の優れた製品を幅広く選択できるようになった。ある時ネットワーク機器ベンダーの人に言われた。「松田さん,ネットワーク機器はオープン,オープンというけどマイクロソフト(以下,MS)の独占はどう思いますか?」。「MSはネットワーク屋の私と土俵が違います」と苦しい言い訳をした。メール,ワープロ,スプレッドシートなどのデスクトップ・アプリケーションでのMSの独占はいかんともし難いと思っていたのだ。しかし,二つの出会いが筆者に「さよなら,MS」の希望を持たせてくれ,すぐにそれは確信に変わった。一つは積水化学が独自開発したオープンソースを使ったメールシステムとグループウエア,もう一つはWebOSであるStartForceだ。
積水化学のメールやグループウエアは積水化学グループ2万人が知識共有することを目的に開発されたもので,Linux上でApache(Web),Openldap(LDAP),Postfix(メール)などのオープンソース・ソフトウエアを駆使し,Ajaxも取り入れている。Webインタフェースで使いやすく,かゆいところに手が届く機能がある。例えば,メールで多数の人にccで同報しようとすると,個人情報保護のためにbccを推奨するポップアップが出たりする。
積水化学の方に何故わざわざ手作りしたのか質問すると,答ははっきりしていた。(1)市販品を購入するのと比較して半分以下のコストで済む,(2)これからも発展するオープンソースの技術を使っておけば今後も低コストで機能強化が図れる,(3)自作なので小回りがきく---ということだ。開発運用チームの規模をたずねると,わずか数名だという。まさにサプライズだ。この話を聞いた瞬間,この仕組みを広く一般に広めたいと思い,積水化学さんに外部への販売を提案した。
もう一つの出会いはWebOSのStartForceだ。WebOSとはブラウザ上のAjaxエンジンでアプリケーションを動かすものだ。パソコンや携帯端末側にAjaxが使えるブラウザがあれば,OSの種類は問わないし,アプリケーション・ソフトはいらない。WebOSのサービスを提供するサーバーにネットからログインすると,ブラウザにデスクトップが表示される。StartForceはWindowsのデスクトップに似ているが,MacやUNIXのデスクトップに近いものもある。Webブラウザがアプリケーションの動くプラットフォームになるのでWebOSというが,Webデスクトップと呼ばれることも多い。
デスクトップが表示された後の使い方は普通のパソコンの使い方と同じで,ワープロやスプレッドシートなどのアプリケーションのアイコンをクリックして起動したり,ファイルをフォルダに保存したり出来る。ファイルはローカルでなく,サーバーに保存される。つまり,パソコンにはOSとブラウザだけなのでシンクライアントということだ。インターネット経由で世界中どこからでもログインし,自分のデスクトップを呼び出して使えるので真のフリーアドレス,ロケーション・フリーということになる。
とは言うものの,WebOSが持っている現在のワープロやスプレッドシートは貧弱なので,すぐにWordやExcelの代わりになることはない。文書やシートはローカルで作成し,保存はWebOSにするという「ネットワーク・ストレージ」としての利用と,IM(インスタント・メッセージング)やファイル共有によるコラボレーションが最初のステップの用途になるだろう。しかし,Web2.0の爆発的なエネルギーはあっと言う間にワープロやスプレッドシートの機能をMSレベルに近づけるに違いない。
WebOSのもう一つの課題はセキュリティだ。インターネットで使い,サーバーはプロバイダ側にあるので,企業には抵抗感が強い。そこで筆者はStartForceのCEO,JinKohさんに提案した。「StartForceはコンシューマや中小企業にネット経由で使わせるのを主眼にしているようだが,大企業がサーバーをイントラネットやVPN上においてセキュアに使う利用形態を是非,やるべきだ」ということで,筆者がそれをやることになった。
積水化学のオープンなメールとグループウエア,そしてStartForce。筆者はこれらに東京ガスのIP電話以来のワクワク感を感じる。きっと世の中の人たちも同じだと思う。革新的なことはワクワク感がなければ広まらない。
コンバインド・コミュニケーションとは
積水化学やStartForceの仕組みを取り入れ,オープンなコミュニケーション・ツール,アプリケーション・ツールを組み合わせて,「安くて,便利で,簡単」を実現するコンセプトを筆者は「コンバインド・コミュニケーション」(以下,CC)と呼んでいる。最近,ネットワーク機器ベンダーやソフトベンダーが声高に勧める「ユニファイド・コミュニケーション(以下,UC)」と対極にある考え方だ。表にCCとUCの比較を示す。
表●コンバインド・コミュニケーションとユニファイド・コミュニケーションの比較
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UCはシングルベンダー指向,クローズド指向で,メール,グループウエア,IP電話など何でも統合して提供する。対してCCはオープン指向,マルチベンダー指向で安価で優れたツールやサービスを組み合わせる。ただし,ユーザー・インタフェースはWebでシンプル&リッチを実現する。UCでは大きなディスプレイを持ったIP電話機が主役だったりするが,CCでは電話はオプションに過ぎない。使われなくなったものにコストはかけないという考えだ。
UCにはないワープロ,表計算などのアプリケーションやネットワーク・ストレージもStartForceを使って積極的に取り込む。筆者のオフィスではStartForceを使った在宅勤務を試行している。自宅のパソコンからVPNでサーバーにログインし,自分のデスクトップを表示して仕事をする。作業した文書などのファイルはパソコンには残らず,サーバーに保存されるためセキュリティが高い。
デスクトップ・アプリケーションのオープン化,つまり特定のソフトベンダーを選択するしかない状況から複数のベンダーから選択できる状況への変革は,今回紹介したWebOSだけでなく,GoogleAppsに代表されるアプリケーション・サービスもその尖兵だ。革命は始まったばかりだが,くずれるはずがないと思っていた独占的なデスクトップ・アプリケーションの巨大な堤防に小さな突破口が開いたことは間違いない。堤防の向こうにはWeb2.0の奔流が激しくぶつかり続けている。堤防がくずれるのは遠い未来ではないだろう。
若い人が先生
今回取り上げたStartForceは昨年,情報化研究会の若手に存在を教えられた。これは企業でも使えそうだと思ったので,すぐCEOのJinさんにアプローチした。Jinさんは26歳。中国系マレーシア人で,16歳の時ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスにあこがれて単身米国に渡り,17歳でカリフォルニア大学バークレー校に入った。自立のために始めたソフトの仕事で会社を作り,成功をおさめた。Web2.0な人とビジネスの会話をするのは初めてだったが,その考え方は面白く勉強になる。最近はベテランよりも,若い人から学ぶことの方が多い。この間,書店で手に取ったAjaxの本は,ほんの数年前まで高校生だった女性が書いたものだった。プログラミングの技術だけでなく,大きな視点で技術のトレンドやその意義がちゃんと書けている,いい本だった。インターネットという学びの場で育つ若い人はビジネスでも,技術でも,DogYear的成長をするようだ。