1969年6月,私は共同開発のために渡米した。その頃のインテルは,創立1年後で,従業員が125人に満たない規模だった(図1)。建物は2,000平方メートルほどの貧弱な印象を与える中古の貸しビルで,製造装置もリースしていた。LSIの製造能力は1シフト(1日の最大シフト数は3)につき月産9万個であった。しかし,5人の博士と15人の技術者を擁してDRAMとPROM(Programmable ROM)の開発に邁進していた。

 会社のオフィスは明るく,エアコンが完備しており,大きな机や乾式複写機が用意されていた。カフェテリアには食べ物の自動販売機やコーヒーメーカーもあった。私は,近代的で豪華な独身者用アパートを見つけてもらい,予想をはるかに超えた快適な開発環境が提供された。インテルとの交渉開始が楽しみとなった(関連記事)。

図1●カリフォルニアのマウンテンビュー市にあった1969年頃のインテル本社
図1●カリフォルニアのマウンテンビュー市にあった1969年頃のインテル本社

 インテルでは,コンピュータとソフトウエアと論理に詳しいホフ博士(M.E.Hoff,図2)が担当者になった。ホフは,コンピュータ・サイエンスの出身で,インテルではアプリケーション・マネジャーを務めていた。しかし,LSI設計技術者ではなかった。

 後でわかったことであるが,ホフはあくまでもコンサルタントとしてビジコンのプロジェクトに参加していた。したがって,相談に乗ってくれたり,アイデアを出してくれたりしたが,具体的なことは最後までノータッチであった。

 ホフがコンサルタントとして我々に応対していることが徐々に明らかになってきて驚きに変わった。この時点では,仮契約書での“両社で共同して電卓用LSIを開発しようではないか”という合意を善意に解釈し過ぎてしまっていたのだ。しかし,話し合いを進めていくと,徐々に,“こんな筈ではなかったのに”という状況になっていった。

 “生みの苦しみ”とはよく言ったものだ。インテル社内でのビジコンとの取り組み方を把握できないまま,実際に打ち合わせ作業に入ると,壁にゴツゴツ突き当たる日が多くなってきた。

図2●ホフ博士と私(米国でのマイクロプロセッサ・フォーラムにて)
図2●ホフ博士と私(米国でのマイクロプロセッサ・フォーラムにて)

 米国においては,当時,電卓を開発・製造している会社は,科学技術計算用電卓を扱っていたヒューレット・パッカード社とシリアルプリンタを使ったモンロー社だけであった。インテルは電卓開発に関する技術情報を全く集めていなかった。また,当時のインテルはメモリー専門の半導体会社であったために,技術者の大半は化学と物理と回路の専門家で,論理設計者が全くいなかった。正式な契約が締結したら論理設計者を雇う予定だったらしい。

 そのため,ビジコンが提案したLSIの仕様,キーボードや表示やパラレルプリンタなどの入出力機器の機能とそれらの実時間制御,論理図などを理解させるのに非常な困難さが生じた。キーロールオーバー(複数のキーが同時に押されたときに,それらのキー全てを読取れる機能)やチャタリング防止(キーの接点が切り替わった直後に信号がON/OFFを繰り返す)などの簡単なランダム論理に対してでも実現は難しいと言われた。

 インテルは,ビジコンが提案したLSIの種類,トランジスタ数,パッケージのピン数などに難色を示し始めた。10進コンピュータのLSI化の可能性について米国のランダム論理LSIを受注している3社に当たってみると,実現の可能性が非常に高いことが確かめられた。インテルとの交渉を継続しつつ,モステックと日本計算器との共同開発における技術情報を参考にして,可能な集積度やLSI向け論理構築方法などを再検討した。

 トランジスタ数とLSIの種類を減らすために,ダイナミック回路を採用し,機能と論理量の最適化を図った。アドレス制御LSIをプログラム制御LSIに吸収し,中央演算ユニットLSIとプログラム制御LSIを簡単化し,キーボードとのインタフェース回路を表示制御用LSIからプログラム制御用LSIへ移し,第二次ビジコン案(前回の記事を参照)を作成した。

 LSIの種類は,表示付き電卓で6種類,プリンタ付き電卓で8種類となった。後年,インテルはビジコンが提案したLSIを12種類と述べたが,表示とプリンタ付き科学技術計算用電卓におけるLSIの使用個数であって種類ではなかった。

 さらに,インテルは,ビジコンが提案した汎用LSIとシャープが開発した表示付き8桁の電卓に特化したLSIとを比較し,ビジコン案の複雑性を主張した。私達は,高性能で多機能な電卓と最も簡単な電卓とを比較されて唖然とした。インテルは,シフトレジスタに関する技術がないため,データ用メモリーに使用予定のシフトレジスタLSIの開発にも難色を示した。

 4004シリーズLSIの開発後にわかったことだが,インテル側ではホフに,「予定している論理設計技術者が少ないから多種類のLSI開発は無理,パッケージはDRAMメモリー用の14または16ピン・パッケージの使用,1KビットDRAMのトランジスタ数が約4,000であるからランダム論理LSIにおける使用トランジスタ数は最大2,000」などの指示を出していた。

 ビジコンは,閉塞したプロジェクトの進捗を図るために,正式契約の締結前で,社外秘であったが,プリンタ付き電卓に採用したプログラム論理方式,10進コンピュータ用のマイクロ命令,電卓のプログラム,LSIシステムの詳細,プログラム制御LSI,中央演算ユニットLSIなどの詳細を開示した。

 ホフは私の提案に非常に大きな興味を示した。後年,ホフはインタビューに答えて,「ビジコンの要求は電卓のファミリー全体に使えるLSIが欲しいという特異なものであり,それを個々の製品とするために,ROMプログラム技術を使おうとしていた。しかし,私はむしろ,プログラム機能を多少持った電卓として作るよりも,それを,電卓として使えるようにプログラムできる,汎用コンピュータのようなものにしたいと思った。また,インテルは部品としてのコンピュータの市場があることに気づいていた」と述べた。しかし,“部品としてのコンピュータの市場がある”は,4004の時ではなく,8008の開発を依頼された時に気がついたというが本当の話である。インテルが予想した4004の応用は,交通信号機の制御ぐらいだった。やっと歯車が回り始めたと受け取ったのだが,また,早合点であった。

 我々渡米チームは,第二次ビジコン案は電卓や低速オフィス機器向け汎用LSIとして十分なシステム・アーキテクチャだと判断していた。

 1969年8月21日に1通の手紙がインテルのノイス社長からビジコンの小島社長に宛てて発送された。インテルは,ビジコン案では,複雑なランダム論理回路を多用し,LSIの種類が多過ぎるため,製造コストと開発期間と開発費用に大きな問題があることなどを指摘した。また,第二次ビジコン案を使わずに第一次ビジコン案に基づいて,ビジコン案のLSI構成とシャープの電卓用LSI構成とを比較し,予想LSIキット価格を$300と概算した。仮契約書(前回の記事を参照)でうたったキット価格の$50とは大きな隔たりがあった。さらに,このままビジコン案で進むのかプロジェクトを止めるかの意見を聞いてきた。ビジコンのマネジャーたちは非常に落胆した。

 インテルからの手紙の内容は日本から知らされた。自分達が渡した情報がインテルに上手に利用されてしまった。インテルに対して不信感が生じた。しかし,相手の持ち駒を含めた手の内を詳細に調べずに,自分に都合の良いように物事を考え,自分の持ち駒と手の内をいきなり見せてしまったのが失敗だった。プログラム論理方式という素晴らしい原石を見つけたのに,LSI化にあたっては,インクリメンタルな改良に止まり,原石をカットして磨くという創造的開発を行わなかったのだ。また,自分たちの交渉力やストーリーを作る能力や表現力などがアメリカ人と比較して劣っていることが,否応なしに自覚させられた。戦略も戦術も幼稚であった。一方,インテルは最後まで手の内をビジコンに明かさなかった。

 共同開発が暗礁に乗り上げそうになった1969年8月下旬の或る日,ホフが,突然,数枚のコピーを片手に,興奮気味に,私達の部屋に飛び込んできた(次回につづく)。