日本のIT貿易はほとんど輸入です。そんな中,「日本発ITを世界に発信するゾ!」と,ニューヨークやロンドンの厳しい環境下でもう2年間も「マドルスルー(muddle through)」を繰り返しているITベンダーの勇気凛々(りんりん)の経営者がいます。マドルスルーとは泥の中を抜け出す,転じて,出口のまったく見えない状況を乗り越えることです。最近はなんとか上下左右や時間は判るようになって来て,ひょっとしたら幻影かも知れないが「今やっと前方に小さな明かりが見えてきた」とおっしゃっています。

 いずれにしても当初の上下左右も時間感覚も無かったときと比べて,状況は確実に良くなっているそうです。その経営者は,こうもおっしゃっています。「弱者連合が徒党を組んでも,妥協や中途半端な信念や傷のなめあいをしているだけなら,激しい環境の中では木っ端微塵になるのが関の山。徹底的に強い自己と打たれ強さと過信を持たねば,マドルスルーは絶対に不可能だ」と。

 日本語や独特の商習慣というバリアーで鎖国し,世界と隔絶した市場で太平を貪っていたIT産業も,グローバル市場で競争力を獲得しなければ,国内市場でも今後存在感はありません。

 ペリー率いる軍艦4隻に,いきなり開国を迫られ問答無用に世界に引きずり出された日本の怯(おび)えとプレッシャーは如何ばかりだったでしょうか。以下,しばらくの間,厳しいグローバル・コンペテションの時代,世界へのマドルスルーの視点で明治維新からの歴史を紐(ひも)解いていきたいと思います。

太平の眠りを覚ます上喜撰,たった四杯で夜も眠れず

 この小見出しは幕末,ペリーが浦賀に来航したとき,4艘の蒸気船が来て江戸時代の「太平の眠り」を覚ましたことをもじった狂歌ですが,実際は4艘ではなく7艘だったそうです。下田港のペリー像の後ろに絵が描いてありますが,7艘います。3艘は比較的小ぶりな船です。その一艘の船名は「サプライ」です。SCM(サプライ・チェーン・マネジメント)のサプライです。まさに名前の通りロジステックス(兵站)の役割です。

 話は戦国時代にさかのぼります。信長が京都・本能寺で光秀に討たれた直後,中国地方で毛利軍と対峙していた秀吉は,毛利軍との間に和議を成立させ,驚くべき速さで京都を目指しました。有名な「中国大返し」ですが,秀吉はこのとき,兵が移動中にも食事を取れるよう街道沿いに握り飯を手配させました。これも兵站です。

 兵站システムは,競争や戦争が好きな米国が1枚も2枚も上手です。ただし,前・国防長官のラムズフェルドは,イラク戦争でコスト削減を目論んだ「最適兵站ITシステム」を稼働させましたが,補給路を断たれ見事に失敗しました。「最適兵站ITシステム」の狙いは,必要最低の物資で運用することだったとか。戦争も彼らネオコンや軍産複合体にとってはビジネスですから,効率を追求するのは当然だったのでしょう。

 話を戻します。ペリー浦賀来航は,列強による日本植民地政策の到来を告げるものでした。しかし,結果的に植民地にならずに済みました。奇跡的なことです。15世紀から17世紀の「大航海時代」の実体は,スペイン,ポルトガルを先頭とする西欧諸国による,キリスト教布教に名を借りた「大侵略時代」でした。さらにぺリーが浦賀に来航した19世紀中頃になると,英・露・仏・独・米など列強の植民地獲得競争は東アジアに向けられていました。

 我が国が明治維新を迎えたのは,世界列強の植民地獲得競争が最盛期を迎えた時代です。欧米列強の包囲の下,弱肉強食の横行する現実の世界で,明治新政府は,侵略・植民地化を避けるため,富国強兵の道を苛烈に進んでいったのです。

 “脱亜入欧”。このスローガンの意味は「欧米列強に対抗するために,朝鮮・中国の開明を待つことやめ,欧米のように侵略すべきである」です。明治政府は日本の植民地化を防ぐため,欧米列強の先進文明を積極的に取り入れ,徹底的な“富国強兵・殖産興業”で,脱亜入欧路線をまっしぐらに突き進み,欧米へのキャッチアップを目指しました。そして,脱亜入欧はその陰の部分として,アジア近隣諸国を眼中に置かず,アジア的文化伝統,生活習慣から離脱すること,同じ民族的近親性を有しているはずの近隣アジア人を軽視することを意味していました。

 時事新報の社説で「脱亜論」を唱えた福沢諭吉が没して4年後の1905年,日本は日露戦争で奇跡的勝利をおさめ,脱亜入欧の目的を達し,有色人種として初めて列強の仲間入りを果たしたのです。