1971年における世界初のマイクロプロセッサ4004の開発により「プログラムの時代」が到来した。ICなどで構築していたハードウエア論理回路網に代わって,マイクロプロセッサとソフトウエアを使ってシステムの機能を実現する時代になった。キーワードはマイクロプロセッサとソフトウエアとなった。マイクロプロセッサを利用した超小型コンピューティング・システムの構築が可能となり,NC機器,キャッシュレジスタ,プリンター,ワープロなどを含めたシステム産業やコンピュータ・ゲーム産業が大きく成長した。

 マイクロプロセッサ4004は,電卓にも使えるように,プログラム論理方式を採用した汎用LSIの開発過程で1969年に発明された。ビジコンでは,4004を使ったプリンター付き電卓の開発後,キャッシュレジスタなども開発された。

 残念なことに,日本では,先見性のないコンピュータ技術者には4ビット・マイクロプロセッサ4004は玩具にしか見えなかったようだった。

 1965年に登場しミニコンの世界を築き上げたDEC PDP-8の加減算の性能は10.5マイクロ秒であった。1970年に登場し16ビット・マイクロプロセッサの手本になった16ビット・ミニコンDEC PDP-11の加減算の性能は6.9マイクロ秒であった。

 世界初の4ビット・マイクロプロセッサ4004は,加減算の性能が10.8マイクロ秒だった。取り扱うデータ長を考慮に入れなければ,ミニコンの性能とほぼ同等の性能を最初から達成していた。主として10進数データを取り扱う低速な事務機器や制御機器には最適なプロセッサだったと言える。その後,ROMやRAMなどを搭載した多種多様な4ビット・マイクロコントローラが開発され,10進数デ-タの表示のある家庭電化製品などに広範囲に大量に使われた。文明の尺度を,モーターの数ではなく,マイクロコントローラの数で計るようになった。

 1973年,8ビット・マイクロプロセッサ8080の開発とビジネスの成功により,インテルではマイクロプロセッサのビジネスが認知され,システム構築に必須なペリフェラル・チップの開発が認められた。8ビット・マイクロプロセッサにおいても,1969年に私が主張したLSIのみによるシステムの構築という提案が約5年の歳月を経て実現した。それらのペリフェラル・チップはIBMのビジネス向けパソコン「ThePC」にも使われた。

 マイクロプロセッサとDRAMメモリーは,半導体プロセスの進化により,車の両輪のように成長し,システムの高性能化と低価格化に大きく寄与した。1972年,IBMは,パンチカードと紙テープに代わる記録媒体として,容量270Kバイトのフロッピー・ディスクを発売した。マイクロプロセッサとDRAMメモリーとフロッピー・ディスクを使って,ディスク・オペレーティング・システム(DOS)を搭載したシステムの登場が期待された。DOSを搭載したシステムを目指して開発したのが8080の改良版であるZ80(開発はザイログ)だった。

 マイクロプロセッサは,世界初の4ビット・マイクロプロセッサ4004の誕生から7年で16ビット・マイクロプロセッサ8086へと進化した。8086の性能は,同時期に発売された高性能ミニコンDEC VAX-11/780(PDP-11の32ビットへの拡張機種)の1 MIPS(Million Instruction Per Second)より劣っていた。しかし,半導体プロセスの進化により,マイクロプロセッサがミニコンVAX-11/780を追い越すのは時間の問題となった。この時期から,コンピュータ技術者がマイクロプロセッサ分野に移動してきて,次世代マイクロプロセッサの開発が加速された。

 1970年代後半に二つの重要な半導体技術が登場した。イオン注入技術と比例縮小による微細化技術である。イオン注入装置を使って,高純度のホウ素,リン,砒素などの不純物を半導体にイオン注入し,半導体中に電子または正孔を発生させ,Nチャネル形半導体やPチャネル形半導体を容易に生産できるようになった。

 微細化にはショートチャネル効果は避けて通れない重大な問題だった。ショートチャネル効果とは,ゲート長(トランジスタのサイズで,トランジスタ内の電子の移動距離。チャネル長とも言う)を短くしていくと,ゲート電圧がしきい値電圧以下であってもソースとドレイン間に電流が流れやすくなる現象である。その結果,トランジスタの出力抵抗の増大,しきい値電圧の変動,もれ電流の増加,ソースドレイン間耐圧の低下など,トランジスタの性能劣化などの問題が起きた。しかし,8086が開発された1978年頃には,ショートチャネル効果の問題が解決された。比例縮小化(スケーリング)という微細化への道,いわゆる“ムーアの法則”への道が本格的に切り拓かれたと言えるだろう。

 この二つの技術が日本と米国の産業体制を大きく変えた。日本はこれらの技術を使って半導体技術を急速に蓄積した。やがて,日本の半導体会社は,半導体技術と品質管理と生産性の強みを使って,DRAMビジネスに参入し,続いて,ゲートアレイやスタンダードセルなどのファウンダリ・ビジネスにも参入し,大成功した。米国では,DRAMビジネスを日本に奪われ,1980年代後半から,次々とDRAM事業から撤退していった。

 一方,米国では,1980年代に入ると,半導体製品開発用CADだけでなく,システム構築技術の上流である論理回路設計用のハードウエア記述言語(VerilogHDL,VHDLなど)を重要視し,それらの研究・開発・製品化が行われた。1980年代後半に入って,日本がこれらの技術の重要性を認識した時には,全ての前線で戦いが終わっていた。

 システムを構築する技術は,マイクロプロセッサ,メモリー,チップセット,グラフィックス,ネットワーク,ハードウエア記述言語,ハードウエア記述言語で記述された論理を,LSIのゲート回路に変換する論理合成ツールなどのCAD,GUIを含むOS,コンパイラ,プログラミング言語となった。最近,システム構築技術にシステムレベル記述言語が加わった。米国はメモリー以外の全てのシステム構築技術を握った。一方,メモリーと下流のファウンダリ・ビジネスに注力した日本は,韓国や台湾との厳しい戦いにエネルギーを使い果たした。

 技術立国の日本とよく言われる。しかし,マイクロコントローラとメモリーとゲーム用プロセッサを除くと,日本にはシステム構築技術が何もない。大学や国の研究機関で次世代のシステム構築技術を研究・開発しないと植民地のまま21世紀をおくることになる。(続く)