システムを構築する技術である「時代を切り拓いた技術」は約10年毎に誕生している。それは,1951年の接合型トランジスタ,1961年のシリコン・プレーナ集積回路,1971年のマイクロプロセッサ,1981年のパーソナルコンピュータ(パソコン),1991年のWWW(World Wide Web),2001年のマルチコアCPUへと進展した(表1)。システム構築技術は,時代を切り拓いた技術により,進化し続けている。本文では,技術の変遷だけでなく,新技術によってどのような時代やキーワードや新産業などが登場したかについて述べる。また,マイクロプロセッサの誕生や発展と関連することなどについても触れる。

表1●時代を切り拓いた技術
開発年新技術時代キーワードと新産業
1951年トランジスタ回路の時代電子,コンピュータ産業,エレクトロニクス産業
1961年集積回路論理の時代デジタル,半導体産業,ミニコン産業,電子式卓上計算器産業,ベンチャービジネス
1971年マイクロプロセッサプログラムの時代マイクロプロセッサ,ソフトウエア,システム産業,ゲーム産業
1981年パーソナルコンピュータOSとGUIの時代オープンアーキテクチャ,オープンシステムズ,デファクトスタンダード,ダウンサイジング,パソコン産業,ソフトウエア産業,知的財産権
1991年WWW,Java言語インターネットと言語の時代インターネット,マルチメディア,アップサイジング,情報技術産業,携帯電話産業,クラスタシステム産業
2001年マルチコア並列処理の時代マルチコア,マルチスレッド

 トランジスタが出現する以前,電子回路に使われた素子には,リレーと真空管があった。リレー(継電器)は,電磁石の動作によってスイッチ接点を開閉させ,データを記憶したり,組み合わせて演算を行ったりする。リレーは,電話交換機やリレー計算機(“電気”計算機)に使われたが,あまりにも低速であった。初期の電子計算機として有名なENIACでは約18,000本の真空管が使われた。プログラムは配線盤のセットによって行われたので,柔軟性に非常に乏しかった。真空管は動き出すとリレーよりも100倍以上速かったが,故障が多く,動かすまでの手間が大変で,体積も消費電力も大き過ぎた。

 1951年における接合型トランジスタの開発により「回路の時代」が幕を開けた。先端技術を語るうえでのキーワードは電気から電子(エレクトロニクス)に代わった。トランジスタ方式の第二世代コンピュータが登場し,科学計算用FORTRAN(1957年:開発)や事務計算用COBOL(1959年)などの高級言語が開発され,コンピュータが産業として成長していった。1955年にはソニーがトランジスタ・ラジオの販売を開始し,トランジスタが民生製品にも使われ始め,エレクトロニクス産業が次世代産業として台頭していった。

 日本では,大学に電子工学科が新設された。1954年に国の研究機関である電気試験所(1970年に電子技術総合研究所に所名変更)に電子部が新設され,エレクトロニクスの研究の一環としてトランジスタ式コンピュータの研究が始まった。また,電子工業の振興を促進するために電子工業振興臨時措置法(電振法)が1957年に制定された。「電子立国」への道が切り拓かれたのだ。

 日本のコンピュータは,リレー計算機,真空管式コンピュータ,パラメトロン式コンピュータ,トランジスタ式コンピュータへと進化した。大学と電気試験所と企業が,独自に,あるいは産官学が連携して,コンピュータを研究・開発した。

 日本において,1950年代は電子式コンピュータの曙の時代であった。東京大学では,パラメータ励振現象を使用する論理回路素子であるパラメトロン素子を1954年に発明し,パラメトロン素子を使った固定小数点2進法の電子式コンピュータPC-1を1958年に試作した。富士通と東京大学,日本電気と東北大学など,企業と大学が共同して,パラメトロン素子を使った商用コンピュータを開発した(情報処理学会のコンピュータ博物館のページ)。

 1957年,電気試験所が接合トランジスタを使ったコンピュータMark IV開発に成功した。Mark IVではトランジスタ数を減らすために,接合トランジスタによる世界最初のダイナミック方式の回路を開発した。Mark IVの技術は日本電気や日立などに伝えられ,国産トランジスタ式コンピュータの立ち上がりに貢献した(広島大学 科学史・科学論のホームページ「物理部と電子部の設立」)。

 電気試験所電子部でMark IVの開発に携わった故高橋茂氏は,その開発を振り返って「当時,計算機は,いちばんおもしろそうなことだったし,トランジスタも出はじめだった。そのトランジスタと計算機のコンビネーションを実現させることは,われわれにとって,非常にエキサイティングなことだった」と語った。

 コンピュータも電振法の指定機種となったため,企業はトランジスタ式コンピュータやパラメトロン式コンピュータの開発製造に本格的に着手した。産官学連携の素晴らしい成功例であった。

 第二次世界大戦後で海外の技術情報を収集しにくかった日本では,黎明期のコンピュータの研究・開発とは,“無”から“有”を生むような創造的イノベーションであったことが,臼井健治著「日本のコンピュータ開発群像」(1986年5月,日刊工業新聞社発行)に詳しく書かれている。

 第二世代コンピュータまでは10進数データを取り扱う事務用コンピュータが多かった。総販売台数が2万と大ヒットしたIBMの中型事務用コンピュータ1400シリーズでは,1キャラクタを8ビット(英数文字:6ビット,パリティ:1ビット,ワードバウンダリマーク:1ビット)で構成し,演算をキャラクタ単位で行った。

 日本では,1958年に日本電気のNEAC2201,1959年に日立製作所のHITAC301,東芝のTOSBAC2100,富士通のFACOM212などの事務用コンピュータが開発された。富士通はパラメトロン素子を使ったが,他社は高性能を実現するためにトランジスタを使った。日本における第二世代コンピュータの完成であった。日本でも,この頃の事務用コンピュータは,演算方式に10進法を採用し,数値語(固定小数点)の構成として“符号+n桁”形式を採用した。トランジスタ数をおさえるために,1ビットずつデータを処理するシリアル型演算器を使ったコンピュータもあった。

 1964年に早川電機工業(1970年にシャープに社名変更)やキヤノンなどがトランジスタ式の電子式卓上計算器(電卓)を開発した。電卓では,事務用コンピュータと同様に,数値語の構成として“符号+n桁”形式を採用した。また,演算器にはシリアル型演算器が使われた。私が在籍したビジコンでは,第二世代コンピュータのハードウエア技術者が1966年にトランジスタ式電卓161を開発した。トランジスタの使用がコンピュータ分野から事務機分野へと広がっていった。初期の電卓はオフィス機器の花形となった。

 専門的な話になるが,電子回路に使われる素子には能動素子と受動素子がある。能動素子には,電流を一定方向に流す整流機能や電流のオン・オフを制御してスイッチ機能に使う二端子素子であるダイオードと,第三の制御端子を持ち電流の増幅やスイッチ機能に使う三端子素子であるトランジスタがある。受動素子には,電圧をかけるとそれに比例する電流が流れる線形特性を持つ抵抗やコンデンサなどがある。アナログ電子回路では,トランジスタやダイオードを抵抗やコンデンサと組み合わせて,整流,増幅,検波機能などとして使う。一方,デジタル電子回路ではスイッチ機能として使う。このスイッチ機能を利用して,論理回路やメモリーなどを作り,それらを組み合わせて,システムの機能を構築する。しかし,電子工学科出身者でないと,動作電圧にマージンをもたせ,ノイズに強く,高動作周波数で動作する大規模なデジタル・システムをトランジスタ回路で設計するのは決して易しくはなかった。

 アマチュア無線(JA2BDZ)の資格を中学時代に取った私は,真空管はラジオやテレビや無線の送受信機などの検波や増幅などに使われるものだと思っていた。ビジコンに入社後,コンピュータのプログラミングを習得し,初期のコンピュータが真空管方式やトランジスタ方式だったことや電卓がトランジスタを使って作られていることなどを知って,電卓の開発に強く興味を持った。幸運にも,電子回路素子がトランジスタからICへと代わる時代だった。(続く)