米ハーバード・ビジネススクールのケースメソッドの授業は,その事業でいらない人間を見つけ首を切るところから議論が始まるそうです。ここらは日本の常識とは違います。話は変わるのですが,以前,有名ビジネススクールの週末コ-スのケースメソッドの授業に参加しました。何か中途半端な気持ちで先生に最終日質問しました。「(本来の)MBAの授業もこれと同じですか?」と。すると,問題シートの有無が違うと。ギャフン!です。

 問題シートには設問が書いてあります。ケースを読めば,設問の答えはほぼ解けます。必要なのは国語の読解力です。しかし,本当に重要なのは問題解決力ではなく問題発見力です。色々な視点でその対象を見て議論し,問題を整理していきます。くどくて申し訳ありませんが,重要な問題を発見できたら7割解けたと言われています。問題シートが用意されていたのは,“週末コース”ということで,我々学生のレベルに合わせていたからでしょう。

 欧米人は問題の設定に著しい興味があり,日本人は解くことに興味があります。問題は与えられるものだと,長年の受験で身に付いてしまっているのでしょうか?問題には正解があると思いがちですから,ガンガンの議論にもなりません。

 要求機能仕様は還元論的/科学的/演繹的には決まりません。統合的な視点や世界観が必要です。システムで一番大事なのはここです。“システム”とは異なる要素が有機的に組み合わせされ,まとまりを持つ統合された全体系です。システム開発の超上流工程で必要なスキルと経営職のスキルとは似ているのです。

 米国の経営者はMBAホルダーから早期に選抜され,1~2年の異動を繰り返し企業全体を学習し,その過程で凄まじい自然淘汰が行われて,生き残りが経営トップになります。キャリアとノンキャリは大きな溝があり,カースト制のよう。

 キャリア組はストックオプションもあり,目の色を変え口角泡を飛ばし下に一杯指示を出す。結果を出さなければキャリア自身が淘汰されるため,指示を実行できない部下は即刻クビ。有無を言わせず,実績を上げるよう厳しく要求する。人事権は直属の上司が握っている。“クビ”と言われたらそれで終わり。よって,下やノンキャリは,時間の切り売り商売で単なる生活の糧としか仕事を捉えていない。

 日本の企業は個々人がテーマを持って仕事をしている。それが許されている。動機形成や思いがある。会社と自分とを同一視し,多大な時間をつぎ込んでいる会社への思いも大きい。現場への権限委譲は進み,自由裁量もあり仕事に生甲斐を求める。自腹を切って職場の仲間と“赤ちょうちん”へ行ってブータれるのは,日本だけの特異な現象だそうです。翻って,欧米では仕事と割り切っているから会社の人間同士で飲む必要は皆無です。

 優秀な経営者になるために課長や部長の経験は必要か?管理職の延長に経営職があるのではない。全く違う素養の仕事です。優秀なマネジャーは目の前の仕事を着実にこなし,実績を上げていく。ただし,それは経営者のミッションではない。管理職として優秀であればあるほど経営職になったら無能。日本企業の失われた15年,長期低落傾向の原因は調整型管理職が経営していることにあったのです。環境変化の時は,いくら現場が強くてもリーダーが適切な針路を示せなかったら,それこそヘッドレスチキン(首を刎ねられた鶏は強い足腰故アッチ行ったりコッチに来たり)です。

 離れた因果関係を概念的に理解できる大局観があるか?着眼大局着手小局がわかるか?部分に対して全体の成り立ちが分かっているか?世界の成り立ちがわかっているか?世界観があるか?中長期の時間軸上のダイナミクスが理解できるか?…。

 日本は社会全体からエリートが消えてしまったが,戦前の日本は学歴による早期選抜していた。トヨタ張会長は東大卒。大卒も少ない時期の東大。早い時期から帝王学を学びました。では,ビジネスに関してアングロサクソンのモノマネをしてきた多くの日本企業が,一番重要な経営職に関して日本独自の道を選んだのは何故なのでしょうか?